『放送教育』1998年6月号(第53巻3号)原稿

(論説)メディアで表現力をどう育てるか


東北学院大学教授 鈴木克明



表現力を花開かせるマルチメディアへの期待


「われわれは人類史上初めて,完全な表現のテクノロジーを手にしようとしている。それがもたらす変化は,グーテンベルグの複製技術どころではないかもしれない。(中略)一般の人々の表現活動を疑問視する意見を聞くと,一般の人々にとって読み書き能力などは何の役にもたたないといわれていた時代があったことを思い出すのだ。(p.137)」(浜野,1992)

 映像や音声を駆使した作品を,文字と同等に,個人のレベルで,安価に簡単に作れる時代がとうとうやってきた。現像が必要であった8ミリ映写機やライトが不可欠だった業務用ビデオに代わって登場した8ミリビデオ。文字や数値だけを扱うパソコンに代わって登場したマルチメディア・パソコン。新聞の投書欄やラジオ番組へのはがき,素人ビデオコンテストなどの選ばれた者だけのチャンスから,誰にでも世界を相手に開設できるホームページへ。

 浜野氏が「完全な表現のテクノロジー」あるいは「表現の革命」と呼ぶ,デジタル映像系パーソナルメディア(マルチメディア・パソコン)の実現。これが,子どもの表現力を育てるようとする議論の時代背景である。この時代に育つ子どもたち一人ひとりが,「表現の革命」の恩恵を受けられるように導くこと。われわれに,それができるのだろうか。


インターネットによる情報発信で表現力が育つか


 インターネット利用の先進校では,より広い地域のより多様な子どもたちとの情報交換を通じて,思考力や表現力を高めることを期待した様々な実践が展開されている(山極,1997)。たとえば,宮崎大学附属小学校では,理科学習を中心にした情報発信のためのホームページ利用を進めてきた。自分たちの観察記録を発信したり,個人カレンダーに自分らしく表現することで,継続して追究する楽しさを学んだとしている。また,福島県葛尾中学校では,平成9年度のキーワードに表現力の育成を掲げ,適切に表現して様々な個性や文化を持つ人々とコミュニケーションする力を養う研究を進めている。インターネット上の交流で自己を表現する意欲を高め,情報発信による自己分析を通じて表現力をさらに高める実践を展開している。

 インターネットは,閉ざされた教室や学校から外へ向けて情報発信することが可能なため,子どもたちにとって強力な表現ツールとなりうる。通信費が学校の予算を圧迫しているという問題は,解消へ向かっている。技術的なサポートも「ハードもソフトもメンテナンスも込み込みで面倒みます」という,本来あるべき姿が提案されている。また,授業展開に必要とされる「教科等への位置づけ」についても,様々なノウハウが蓄積されてきた。実験校のみ実現可能な特殊事情という領域を,そろそろ脱することができるのかな,とも思える。インターネット利用に限らず,その基盤となるマルチメディア・パソコンの導入が,学校内外の自己表現活動を豊かにしていくことが期待できよう。

 一方で,技術に支えられた表現の質には,疑問の声もある。佐伯氏(1996)は,インターネットで一人ひとりが「ホームページ」をもって世界に情報発信ができるようになったことや,パソコン上のプレセンテーションソフトで発表ができることで,かえって自己表現がうすっぺらなものになっていると警鐘を鳴らしている。世間一般(不特定多数)を相手にしたなんとなくコマーシャルフィルム的な,よくあるスタイルにしたがったホームページや,テンプレートにはめ込んだだけのゴテゴテと飾りたてた一見キレイで格好良いけどかえってわかりにくいプレゼンテーションが多く見られることを憂慮し,「自己表現のツールの普及,自己表現機会の増大は,かならずしも人びとの自己表現活動を豊かに,あるいは活発にしているとは思えない。(p.29-30)」と言う。

 発表設計を支援するソフトウェアをデザインし,小学校での実践的研究を展開した山内氏(1995)も,視覚的には派手な発表のなかで,子どもの「語り」が死んでいることを観察している。棒読み発表を聞かずに自分の発表の準備をしている「カラオケ発表」を乗り越える指導が求められる一方で,表現技法をいきなり教えると画一的な枠にはまった発表になる問題があると指摘している。感情をこめて読むように指導すると,イントネーションは変わるがダイナミックさが消える。実際に感動していないのにもかかわらず,感動したふりをすることを学んでいるというのである。

 浜野氏が言うように,われわれは人類史上初めて,完全な表現のテクノロジーを手にしようとしている。学校へも,急速な勢いで,導入されている。しかし,テクノロジーの導入が,子どもに表現力を育てるとは限らない。むしろ,表現力の育成という観点からみると,障害をもたらすときもあるようだ。強力な道具だけに,使い方(使わせ方)を見極める必要がある,ということになろう。


表現とは自分自身の感動を形にして人に伝えようとする試み


 ところで,表現,あるいは表現する力とは,何だろう。芸術的な表現から,説明的な文章表現,あるいは自然科学や数学における客観的認識の表現まで,じつに幅広く,どの教科でも用いられている。指導要録改訂で観点別評価に表現力が位置づけられたことが,この言葉への取り組みを加速してきた。

 現在の教育界では,ほぼ一般的に「表現」の概念が曖昧であると指摘する竹内氏(1993)は,和歌や俳句などの伝統で培われた「外的なものの状態を描写することを表現と呼んでいる(p.173)」ことを問題にしている。竹内氏によれば,「表現とはまず自分自身の感動を形にしようと試み始めることだし,その過程でその人は自分の内で動いて自分でも知らなかったなにか,言いかえれば新しい自分に出逢う(p.174)」ことであり,「孤独に追いこまれた自分のからだの奥の奥のなにかをさぐり出すことである(p.176)」。芸術表現の立場から,子ども一人ひとりの内の表現したいという衝動に重きを置く。

 轡田氏(1997)は,客観的な表現が求められる新聞の世界でも,「客観的に表現する,とは,主観,つまり自分自身で感じとったことを,何も知らない第三者にわかってもらえるように,冷静に表現すること(p.112)」であり,わかってもらいたいと願うこころがその土台にあると言う。自分自身の感動から発し,自分自身による客観的な批判にさらされて,表現が磨かれていく。小学校時代にかかった「感想文病」を脱するためには,悲しいという言葉を使わずに悲しみを表現するように,感想ではなくて,自分が観察したことをそのまま文章で表す練習が大切だとする。

 「だれに向かって書くのか,だれに向かって語るのか。そのことをしっかり認識し,意識するところから,表現ははじまる(p.98)」と述べ,表現の相手を意識することの重要性を説く。ところが,新聞記者であった轡田氏がいつも意識する相手は,師と仰ぐ最初の赴任地の支局長氏,つまり「たった一人の読者」だと言う。佐伯氏(1996)が自己表現がうすっぺらになる原因とした「世間一般」への発信ではないところが興味深い。

 海保氏(1988)は,「認知表現学」を提唱し,わかりやすい表現とその根拠を,認知心理学をもとに解説している。ここでも,相手を意識することがわかりやすい表現の第一歩であるとされる。その一方で,海保氏は,他人をまったく意識しない,自分のための表現の存在を重要視する(この点は,海保の近著『自己表現力をつける』にも詳しい)

 海保氏によれば,日記に代表されるような,自分の世界のモヤモヤに形を与えて,自分を深く知ろうとする自己確認・自己の存在証明のための表現は,表現の一つの本質である。また,表現には一種のストレス解消の機能もあり,そのためには,大げさに,誰にも気がねなく,自由闊達に表現することが大切であるとする。他人からの評価を意識したり,権力や仲間への気配りが過ぎたり,自分の身を守りたいと思うなど,何らかの抑制が働くと表現全体が死んだものになる。これが日本人の表現下手の根底にあるのではないか,と海保氏は分析する。山内氏(1995)が観察した「カラオケ発表」や「感動したふり」の学習が想起される。

 最後に,自然科学的な観点からの表現力について見ておこう。文部省(1991)の指導資料では,今後の理科教育に表現力の育成は重要な課題であると位置づけ,表現力を次のように定義している。「理科における表現力は,観察,実験から得られた事実や測定したデータ及び結論を再現性の高い公正妥当な方法で伝達する能力である。(p.57)」表現の前提となる意欲を引き出すためにも,具体物を対象とした観察や実験を重視し,より科学的に表現する力を伸ばすと同時に,個性的で多様な表現を奨励することの大切さを説いている。

 再現性が高く,わかりやすく表現する手法として,次に掲げるさまざまな表現手法を身につけさせるべきだとしている。いわゆるメディア教育で扱われる表現技能である。

 ◇言葉や文字による表現(情報交換,発表会)
 ◇実物による表現(標本の提示や実験の再現)
 ◇製作物による表現(装置や器具,模型,モデルなど)
 ◇スケッチによる表現
 ◇図・表及び,記号化,数量化,図式化による表現
 ◇間接的な提示方法による表現(レプリカ,写真,VTR,録音など)

 理科のような,再現性を重んじる正確な表現でも,その原点には,観察,実験などの具体的な体験がある。そこから得られた事実を是非記録に留めておきたい,あるいはそれを見ていない人に伝えたい,という欲求に裏付けられた表現であることが望まれよう。その意味からも,表現力をつけるという営みは,どの分野においても,単なる技術的なノウハウに終始してしまうことがないようにしなければならない。伝えたい,という欲求が表現上の工夫を動機づけるであろうし,さまざまな領域で伝えたいと思う体験を重ねることが,表現力を高め,表現者としての自己を磨くからである。


おわりに


 水越氏(1994)は,メディア教育の視座から,8ミリビデオやインスタントカメラの普及によって小学生でも映像による表現を十分に体験できるようになった今日,表現や発信に重点を置いたカリキュラムを整備する可能性と必要性を述べている。「メディアリテラシーの育成に,いまこそ学校が責任をもって取り組むべきである。中学校の技術科の選択としての情報基礎で,というのではなくて,義務教育のあらゆる学年で,また国語,社会,美術,というような特定の教科だけではなく,いくつもの教科をつなげることも含めて,正規のカリキュラムに位置づけて。そのためにはまず,教師の授業観や発想の転換が前提となろうし,教師自身がメディア・リテラシーをもたねばなるまい。(p.18)

 インターネットの導入を待たずとも,手近なところから,メディア教育は実践可能である。「表現の革命」の恩恵を一人でも多くの子どもたちに受けさせることができるよう,表現とは何か,という点検をしながら,実践を重ねていただきたいと思う。

 メディアで表現力を育てる実践は,様々なところで試みられている。本誌にかつて掲載された示唆に富む多くの実践例とその枠組みを,田中氏(1995)がまとめている。本稿に続く2つの実践報告とともに,一読されることをお勧めしたい。

謝辞

本稿は,「思考が伴わない表現はない」を合言葉に活動中の共同研究「思考・表現のためのマルチメディア活用研究」(平成9・10年度(財)松下視聴覚教育研究財団研究補助,研究代表者:国立教育研究所清水克彦氏)での議論に刺激を受けて,まとめたものである。記して感謝したい。

参考文献