『視聴覚教育』1999年2月号原稿

(随想)
『日本賞』教育番組国際コンクールをめぐる二つの異変


東北学院大学教授 鈴木克明



 昨年11月,第25回を数える世界で唯一最大の教育番組の国際コンクール『日本賞』 が開催された。今年度も,コンクールは盛大であった。世界51ヵ国106の機関から合 計170本の番組がコンクールを主催するNHKに寄せられ,11ヵ国から集まった教育 番組制作のプロたちが審査にあたった。グランプリ『日本賞』をはじめ各賞が,皇太 子夫妻ご出席の授賞式で,受賞番組の制作者に与えられた。

 今年度の日本賞では,異変が二つ起きた。その一つは,グランプリに輝いた番組に 対して賛否両論が巻き起こったこと。二つ目は,秀作ぶりを披露して審査員をうなら せる受賞常連のNHKが,賞を一つも取らなかったことである。

 筆者は,第21回日本賞参加番組を二夜連続で紹介するETV特集に出演し,また, 昨年度は審査員として一週間缶詰で応募番組を視聴し,海外からの審査員と議論しな がら各賞決定の一翼を担う貴重な体験をした。今年度は関連行事の第5回アジア教育 番組国際ワークショップで,アジアからの教育放送関係者と受賞番組について議論さ せてもらった。いずれも『放送教育』にて紹介する機会も得ている。

 この経験を通じて,日本賞が世界の教育番組交流と制作にとても強い影響を与えて いることを体感した。先進諸国からは,毎年,スケールの大きい新作看板番組がこぞ って応募される。一方で,予算的・人材的に限られた環境で制作された番組も応募さ れ,年を追うごとに技術的な進歩が見られるという。今年度のグランプリ作品に対し て賛否両論があったのも,世界が日本賞の行方を注目していることを物語る。

 さて,ひときわ議論を呼んだグランプリ作品は,フィンランド放送協会制作の『文 学入門〜恐怖の満月 ホラーって何だろう〜』だった。中等教育部門(中高生向け) に応募されたこの番組は,文学や映画をもとにホラーについて考えさせるものであっ た。子どもたちが恐怖感や怪物,あるいは好きなホラー作家について語るインタビュ ーを軸に,蜘蛛の巣まみれで登場するホラー作家が解説し,子どもたちが自作したホ ラー物語を生々しくドラマ化するなど,取り上げた題材とともに演出手法も斬新であ った。

 確かに,この番組を視聴しただけでは,メディア学習を発展させようとする制作者 の意図は,すぐには伝わりにくい。「活字離れにならないように,せめてホラー物語 でもいいから読書しましょう」というような,啓蒙的な臭いを感じさせない演出にな っているからである。大人が一見して「これは教育番組である」とわかるようでは, 中高生をその気にさせることは難しい。一方,子どもが思わず見入ってしまうような 番組を目指すと,大人にとっては斬新すぎるものにならざるを得ない。

 この番組の制作者は,授賞式のスピーチの中で「スリルを題材にした作品が日本賞 を受けたことで,私自身が今スリルを味わっています」と切り出し,三千人の中高生 アンケートに基づいて番組を制作したことを強調していた。前回審査員として来日し たフィンランド放送協会教育番組制作部長のマーチンカイネ・フローラス女史は,筆 者の電子メールでの問い合わせに対して,フィンランドでは8割の先生が教育番組を 授業に用いており,この番組も教室での視聴を前提にしてメディア教育の一環として 制作されたものだと述べている。放送時間を15分に設定しているのも,視聴後に話し 合いや創作活動を促したいからだという。

 番組それ自体に説明的な部分がないこの種の番組を利用するためには,教室教師に よる深い理解と子どもへのサポートが不可欠である。中高生には好評であろうこの番 組も,教師が「くだらない」との烙印を押してしまえば,教室で視聴されることはな い。また,たとえ視聴したとしても,見せたらそれでおしまい,では済まされないこ とは確かであり,使いにくい番組だとみなされるリスクを負っている。

 一方で,この番組が適切に用いられれば,素晴しい結果を生む可能性がある。読書 から遠ざかりがちな子どもたちを本の世界に誘い,自らが物語の書き手となって創造 的な営みを展開する。怖さゆえに拒否していたホラー世界の「仕組み」に気づき,批 判的な読み方や見方ができる子が育つ契機になれば,メディア教育の優れた素材にで きる。教室教師への信頼がなければ放送できない番組だと思う。

 この番組が高く評価されたことは,日本賞の評価基準に「斬新さ(Novelty)」が 挙げられていることと無関係ではない。1965年の第1回日本賞を受賞した「自然のカ レンダー」は,環境教育という言葉さえなかった時代に,自然の生態と破壊を,そこ に遊ぶ子どもたちの四季とともに描いた詩情豊かな番組であった。40分に1行のナレ ーションもインタビューもない構成のこの番組は「教育番組というよりドキュメンタ リー番組ではないか」との議論をトび,日本賞における幅広い教育番組観を確立する 契機になったという(中野照海,1994「『日本賞』が果たした役割〜教育と放送の間 を歩んだ20回〜」NHK『日本賞20回のあゆみ』p.16-20)。日本賞の歴史に輝くこ の番組も,今回のグランプリ作品と同様,フィンランド放送協会の制作によるもので あった。

 世界で最も有名な教育番組の一つ,アメリカ CTW社制作の「セサミストリート」は,その斬 新さゆえに第6回日本賞で議論を呼んだが,受 賞は逃し,1971年の第7回日本賞でグランプ リを受賞している。今年度議論を呼んだこの番 組が今後どのような評価を受けていくのか,楽 しみにしたいところである。

     今年度の日本賞でのもう一つの異変は,たいへん残念なことであった。これがたま たまの偶然なのか,あるいは何かを示唆しているのか,筆者にはまだわからない。教 育番組の制作者自身が同業者の仕事を評価すること,そして,ときとして自分の所属 機関からの作品も同じ土俵にのる中での審査の難しさがついて回る。日本賞で認知さ れることの影響が絶大であり,そして多くの番組制作者がたとえ教育番組といえども 生存競争と無縁ではないことも事実である。

 たかだか一度の経験からではあるが,応募用紙に記述された制作の意図や番組の反 響などについての主張が,審査過程で重要な役割を果たすことがある。番組構成や技 術的な要素は視聴すればすぐ優劣がつけられるが,教育番組としての価値を判断する のは容易ではない。良質の番組を応募するとともに,いかにその番組が教育的な価値 に富むものであるのか,各国から集まる審査員を納得させるような明確な主張が求め られる。来年度のコンクールに向けて,NHK関係者の奮起を期待したいところであ る。

 日本賞受賞作品は,毎年コンクール直後にNHKで放送されるほか,歴代の作品を NHK放送センター内の日本賞事務局で視聴できる。話題となった斬新な作品に触れ ,教育における映像の役割に思いを馳せるとともに,世界の教育番組関係者がどんな 作品をつくっているのか,直に肌で触れてみては如何であろうか。