『放送教育』1999年6月号原稿

(論説)
情報教育を考える〜学校の情報化はどこへ向かっているのか〜


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明


1.新滝沢村民の情報化

 筆者は、この4月から岩手県岩手郡滝沢村の住人になった。11年住み慣れた仙台市青葉区を離れ、赴任した岩手県立大学の近くに引っ越したのである。かつては、「情報」とは、都会に出て得るものであった。ラジオやテレビは、都会の情報を全国に伝えるメディアであった。高度情報通信社会では、都会から離れた地ほど情報化の恩恵を受けるといわれている。滝沢村の我が家の情報化はどう進行しているのか、足もとから時代の流れを見てみることにしよう。

 引越にあたりISDN回線に加入し、インターネットに入り込んでいるときも電話が通じる環境を整えた。普通紙ファックスで仕事の依頼を受信可能にし、家庭内LANを張り巡らせた。遠方にいる人と声を交わしあうメディアとして世の中のありようを一変させた電話は、高度情報通信社会への入口になった。もはや、電話で交わされるのは声だけという時代ではない。

 赴任した岩手県立大学では、新しく「メディア論」という講義を担当している。そのための準備に最も活躍したのは、グーテンベルグ以来の印刷術が生み出した本である。しかし、本の入手にはインターネットが活躍した。東京、新宿、仙台、盛岡と書店をまわって中身を見てから購入した本も多かったが、インターネット上の書店の世話にもなった。和書洋書を問わず、マウスで注文、クレジットカードで決済、そして宅配便で手元に届く。便利になったものだ。

2.2本のパラボラアンテナ

 講義の準備には、他のメディアも活躍している。まずは放送大学である。同名の講義「メディア論」が毎週木曜日朝7時から放送中で、新参者にとっては大変ありがたい。早速CSチューナーとアンテナのセットを購入・設置して、毎週視聴している。筆者自身がゲスト出演した頃は、関東エリアのみの放送だった。CS利用による放送大学全国化で恩恵を受けている人は多いはずだ。とりわけ、いくつ民放があっても中身が代わり映えしない昨今は、都会とて選択肢が多いと胸を張れる状況ではないのだから。

 放送大学は、CS受信セットを購入・設置するだけで見られる無料放送である。CSには他にも有料専門チャンネルがめじろ押しで、野球などのスポーツ専門チャンネルから、名画、趣味、教養、受験、バラエティ、アダルトに至るまで、選ぶのに困るほどの選択肢が用意されている。仮契約をして2週間のお試し期間で購入するチャンネルを選択・登録するシステムになっているが、とりあえずは毎月数百円の基本料金のみで契約して、見たい映画だけをその都度数百円払ってPPV(ペイ・パー・ビュー)したいと思う。

 CS受信用チューナーの背面には、電話線をつなぐ端子がある。見たいチャンネルや番組を登録すると、電話で購入情報が自動的に放送局に伝えられ、その番組のスクランブルが外される仕組みになっている。受信用チューナーは視聴者の要求を発信する装置でもあり、ここでも電話がメディアとして活躍している。しかも無人の自動通信装置として。

 これで我が家のパラボラアンテナはBS用と合わせて2本になった。この際ついでに、ということで、ハイビジョン・テレビも購入してしまった。前任校の公費で購入したときと比べれば、価格は4分の1未満に下がっている。デジタル放送になってもコンバータで対応可能ということで安心だ。

3.ネットサーフィンで情報検索

 講義の準備に活躍しているもう一つのメディアは、ホームページである。ホームページを見て回る(ネットサーフィンする)ときは、自宅で電話料金を気にしながらやるよりも大学の研究室に来ている専用線を利用することが多い。新設2年目で、しかもソフトウェア情報学部を有する大学だけに、ネットワーク環境はこの上もなく快適である。学校にインターネットが入るときも、じゃぶじゃぶ使える専用線になって欲しいものですね。

 ホームページ上には、多くの大学がシラバス(講義概要)を公開している。「メディア論」でキーワード検索したところ、数千のヒットの中に、シラバスが20件ほど見つかった。そのなかには、目次程度の概要紹介にとどまらず、とてもその場ではすべてに目を通すことができないほど多量の情報を公開しているものもあった。メディア論の講義を「インターネット講座」としてホームページ上で全文公開している大阪市立大学や、講義メモやプレゼンテーション資料を公開している慶応義塾大学のサイトが、その代表例である。その他にも、関連資料やエッセイ、文献情報なども多数みつかった。早速、筆者のホームページに「メディア論」のコーナーを設け、自分用の早見表に整理している。

 キーワードを英語にして検索すると、これはただ事ではない。サイトの多さはもとより、公開されている情報の豊富さは日本語のそれを凌駕している。数日間を費やして見て回ったが、まだまだ入口に到達しただけという感じだ。講義の進捗状況を週ごとに更新しているもの、圧倒的な量の参考資料へのリンク、受講生による作品集、ネット上で展開する遠隔講義、バーチャル博物館、マクルーハン財団のホームページなどなど。インターネットの世界では英語が公用語だ。翻訳ソフトを頼りにしながらでもいいから、英語の情報を得られるような学生を育てなければなるまい。

 こうして始まった滝沢村での新生活であるが、読者の身辺と比べていただいて、筆者の生活の「情報化」の進み具合は如何なものであろうか。高度情報通信社会では、このような状況が自明なものになるのだろうか。情報化をキーワードに今、学校教育に変革が迫られている。その改革の目指す方向は、どこに向けられているのだろうか。

4.外なる情報化と内なる情報化

 マルチメディアが社会を変えると騒がれ、次にはインターネットにそれがバトンタッチされた。根っこは同じで、情報のデジタル化とネットワーク化を意味する。瞬く間に、産業界は変貌を遂げた。今やホームページを持たない企業はないし、携帯電話を持ち歩かないサラリーマンはいない、という感さえある。筆者の周囲でも電子メールが当たり前になったおかげで、電話を使うことがめっきり減った。『放送教育』への原稿も、ここ数年来、電子メールで入稿することがすっかり定着した。

 情報のデジタル化とネットワーク化が会社経営に与える影響を、「外なる情報化」と「内なる情報化」という2つの方向に整理した議論がある。「外なる情報化」への対応とは、情報産業市場への参入を意味した。すなわち、情報化にともなって新たに創出される機器、メディア、コンテンツ市場に、ビジネスチャンスを求める動きだ。医療、教育、ショッピング分野のサービス産業がビジネスの鍵を握ると言われた。マルチメディアブームとインターネットブームは、パソコンの購買層を一般家庭にまで広げ、プロバイダーが雨後の筍のように乱立した。各地でパソコン教室が大はやりだし、関連して出版されたハウツー本や雑誌もその数さえつかめないほど多い。企業人の目には、学校教育の情報化推進の動きも、新たな市場の創出と映っていることだろう。

 この「外なる情報化」と並んで「内なる情報化」が企業を変えたと言われている。「内なる情報化」とは、企業自らが自分自身を情報化することを意味する。情報化でビジネスの進め方を本格的に変容させ、より先鋭的な競争力が持てるようにする。たとえば、業務の中断を余儀なくされる社内電話の使用をやめて電子メールや電子伝言板を採用したり、企業内で所有する情報を共有化し、無駄を省き、効率的な経営を目指す。上司が部下の提案に直接耳を傾けられる組織改革など、様々な場面で仕事のやり方を情報化していこうというわけである。

 ひるがえって、学校にとっての「外なる情報化」と「内なる情報化」とは何だろうか。

5.学校での「外なる情報化」:社会の情報化に対応できる子を育てる

 高度情報通信社会に巣立つ子どもを育てる学校としては、社会の変化に対応できる子どもを育成することが肝要である。この種の議論は、(たとえは悪いが)新しく創出されたニーズに応じて付加価値をつけた商品を売り出そうとする企業の「外なる情報化」の学校版ととらえることができる。パソコンに慣れさせることから始まり、インターネットによってもたらされる無編集で信ぴょう性が低い情報に惑わされない子ども、自ら情報を発信できるような子ども、あるいは企画力や実行力、プレゼンテーション能力などのこれまでの学校ではあまり扱われてこなかった能力を開発された子ども、などなど。

 情報教育に対する考え方も、時代の進展とともに、あるいは学校現場での実践の蓄積に支えられて、かなり整理された。「実践力」「科学的理解」「参画する態度」の3本柱に再編された情報活用能力。中学校技術・家庭科で「情報基礎」から拡充・必修化された領域「情報とコンピュータ」、普通科高校での必修教科「情報科」新設。小学校から高校まで通して新設される「総合的な学習の時間」とその柱の一つと位置づけられた「情報」。どれもが、新しい時代に巣立ち、新しい時代を担う子供たちに必要な「外なる情報化」に対応して、学校教育の目標や内容も変化することが求められているものである。

6.学校での「内なる情報化」:情報化時代の学びを支える環境づくり

 一方の「内なる情報化」を学校にあてはめるとどうなるのだろうか。学校には企業のような生き残りをかけた厳しい競争はないとしても、学校の再生を望む声は少なくない。社会の急激な変化が学校を取り巻く子どもや親、あるいは地域社会の様相を変貌させたとすれば、学校だけが昔のままではいることはできにくい。いや、昔のままに居続けようとしているところに、様々な問題が生じていると見ることもできよう。今までの常識を「内なる情報化」という観点から見直すチャンスだと考えては如何だろうか。

 学校を外から眺めると、不思議に思うことは少なくない。家庭では電話が一部屋一台の時代なのに、学校の教室にはどうして内線電話すらないのか。世の中には、教科書よりも新しく臨場感があふれる出来事がたくさんあるのに、なぜ新聞やテレビニュースを教室に持ち込んで、今の勉強がどこで役に立つのかを示さないのか。個に応じるはずのコンピュータ教室で、どうしてみんな同じソフトで同じところを勉強するのか。自分で工夫して自分で勉強できる人が求められているときに、子どもが好きな教科を選んで好きな教材で自学できる時間が、どうして1時間もないのか。どうして「勉強のやり方」を手ほどきして本人の工夫に任せる部分を徐々に増やさないで、最初から最後まで教師主導なのか。図書室にインターネットを入れる前に、どうして放送番組のストックやビデオ教材を自由に見るためのブースを置かないのか。これらのことは「現場にはそんな余裕はない」という一言で済ませていいような枝葉末節なのだろうか。

 そう言われた時代もありましたが、もう学校はずいぶん変わりましたよ、と反論してくれる学校がこの先増えていくのだろうか。「外なる情報化」に対応して学校に持ち込まれる新しい中身を、今までのままであり続ける学校で教えようとすると、さらに自己矛盾が膨らみかねない。学校の常識について見直して、抜本的な「内なる改革」に着手されることを切に願うものである。

 学校の「内なる改革」の願いは、様々な形で実現されている。武藤ら『やればできる学校革命』(日本評論社,一九九八年)には、福島県三春町での町ぐるみの改革記録が詳細に語られている。やればできる、そして、やってできたとの思いが伝わってくる。また、先日訪問させていただいた和歌山県彦根市の「きのくにこどもの村学園」では、このような自由学校が私立学校として文部省に認可される時代になったことに、これからへの期待が高まった。複数担任制、プロジェクト方式の授業、45分単位の時間割の撤廃、ノーチャイム方式、教科教室方式、子どもによる自己選択と自己責任の原則、厳しさに裏打ちされた自由。このような理想像が、もうすでに現実のものになっているところがある。そういう先進例から学ぶべきことは少なくない。コンピュータやインターネットを一度頭から取り去ると、「内なる情報化」の進むべき道が見えてくるのではないか。

7.放送で学校の「内なる情報化」を支える

 学校教育改革運動としての放送教育の復権が叫ばれてから、かなりの年月が経過した。先進的な教育の方法論が放送からコンピュータへ移行するのを契機に、本来果たそうとしていた得意分野への特化が訴えられた。すなわち、ジャーナリスティックな放送人の目をもって教育の現状を批判的に見つめ、ときとして旧態依然としている授業の在り方に疑問を投げかけるような、斬新で問題提起的な材料を提供していくこと。それを巧みに利用する教師によって、授業の常識が見直され、新しい形の授業が生み出されていく。そういう意気込みは、すでに消えてしまっているのか、それとも、「内なる情報化」に幾分かでも貢献しようとする気概がまだ残っているのか。自問自答し続けることが大切だと思う。

 番組の送り手はどうか。教科書と現実世界を結びつける番組、新しいスタイルの学びのモデルを示す番組、子ども同士や学校同士の学びあい・教えあい交流を促進する番組などなど、まだまだやれることはたくさんある。放送番組の良さを確かめ担う役割を焦点化する意味でも、番組関連情報を他メディアで提供してみることも大切だろう。「羅針盤」のように、教師向けの番組、教師の実践を支える番組も益々重要になる。  放送教育を推進している現場教師はどうか。「自分は放送教育をやっているから、コンピュータは触らない」などという後ろ向きな態度をとるのではなく、積極的に情報化の荒波に乗りだし、その中でこれからの放送教育の役割を模索する態度が求められている。放送という視座から情報化を考え、貢献する材料を探していく、と言えばよいのだろうか。

 少しだけ未来になったとき、「学校はずいぶん変わりました。放送教育はその中でこれこれの役割を果たせましたね。」と振り返れるといいですね。

8.おわりに

 進行中の講義「メディア論」は、様々な情報源から様々な情報を入手することによって、なんとか自転車操業の日々を過ごしている。新しい講義を担当することによって最も勉強になるのは講義者であることを実感する毎日であり、実に楽しく充実している。しかし、この講義を、旧態依然とした講義形式のまま実施するのでは、情報化への対応として相応しくない。学生諸君にも、自分で情報を集め、解釈し、世界へ向けて発信していくことができるようになってもらいたい。教授システム論を学び、それを大学教育の現場でいかに実現していくか、筆者の挑戦は始まったばかりである。その一端は、「メディア論」ホームページで垣間見ることができる仕掛けを用意している。興味がある方は、是非一度ご訪問いただき叱咤激励願えれば幸いである。研究室のホームページ(http://www.et.soft.iwate-pu.ac.jp)からのリンクがある。地方からの情報発信が気軽にできるのも、高度情報通信社会の恩恵の一つである。