『放送教育』2000年6月号原稿(脱稿2000.5.8)2400字程度
シリーズ:中学校での『総合的な学習の時間』を考える


第3回「総合的な学習の時間をどう評価するか」
    〜ポートフォリオ,フィードバック,アカウンタビリティ〜


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明


総合的な学習の時間に評価はいらない?

 本シリーズを締めくくる第3回は,総合的な学習の時間の評価について考えてみたい。ある中学校の先生にメールで尋ねたところ,「評価はしなくてよい、と私の学校では受け取っています。」との返事が来た。

 確かに,平成10年の教育課程審議会答申でも,「教科のように試験の成績によって数値的に評価することはせず、(中略)例えば指導要録の記載においては、評定は行わず、所見等を記述することが適当」としている。しかし,評価がいらないわけではない。


ポートフォリオで自己アピールができる生徒を育てる

 ポートフォリオとは,書類入れやファイルを意味する言葉である。総合的な学習の評価方法として,近年注目されている外来語である。ポートフォリオ評価は,たとえば「学習活動において児童生徒が作成した作文,レポート,作品,テスト,活動の様子が分かる写真やVTRなどをファイルに入れて保存する方法」(グロワード,1999,p.8)と定義されている。

 ポートフォリオ評価は,単なる記録ではなく評価なので,学習の過程で創出されたものすべてを保存するのではないとの考え方が一般的である。すなわち,残す意味があるものを選んで子ども自身の目の前でファイルすることを通して,1)子どもが達成したことが何であるかを子ども自身に明確に伝え,2)どうしてそれが高く評価されることなのかをわからせ,3)子どもの達成感や自尊心,あるいは自己効力感を高め,そして4)次の課題が何であるかを示して自分の学習活動をコントロールするためのメタ認知を育てることを意図するものである。何を残して学習成果を最大限にアピールするか,という意味で,証券ポートフォリオ(連動しない証券の組み合わせ)と底通する用法である。

 イギリスでは,16才以上の生徒は,自分自身でポートフォリオを作成し,一般職業資格取得に値するだけの学習をした証拠を示すことが義務づけられているという(グロワード,1999)。自分の学習成果をまとめて整理し,それをもとに「これだけの成果をあげました」と自己アピールできる子どもを育てる。中学校あたりから,証拠を揃えて自己主張という訓練ができれば,たくましい子どもが育つだろう。


確かめながら進むための評価:フィードバックと自己修正

 アメリカのポートフォリオ学習を紹介している小田(1999)は,「日本の総合的な学習では,評価の観点を明示しつつ進めている学校は少ない(p.8)」と指摘する。アメリカでは,学びが始まる前に評価観点を示した上で調べ学習などを行わせていると言う。評価の観点を事前に明示することは,ポートフォリオ学習の本質であり,「自分の変化について自分で気がつくための学習(p.75)」だとする。フィードバックによる自己評価と修正が組み込まれているのである。

 たとえば,ミネソタ州の事例「マーケットリサーチ」では,観察ノートと図表と小論文の提出が義務づけられている。各提出物に対して,観察ノートではわかりやすさと重要なポイントが含まれているかどうか,また図表では,表示の正確さ,パターンの発見,そしてそのパターンの示し方などが評価基準であると示される。生徒はまず自分自身で「優れている・満足のいく状態・改善を要する」の3段階でチェックし,教師による評価と比較しながら自己の学習を振り返り,自己評価力をつけていく。

 自己評価といえば,生徒の自己評価だけでなく,教師の自己評価も忘れてはなるまい。 小田の「教員の自己評価の本質は,教員ひとりひとりの教え方の結果が生徒の学習理解をどのように深め,関心を持たせたかを『自分で自分を振り返る』ことである。このような姿勢の延長線上にこそ,今日の『生徒による自己評価(メタ認知活動)』があるのではないか(p.101)」との指摘を真摯に受け止めたい。


アカウンタビリティは結果責任:ともに創りあげよう

 最後に,アカウンタビリティという外来語を加えておく。この用語は,行政における情報公開等の文脈で説明責任という意味で用いられるので誤解されることがあるが,教育の領域では結果責任を意味する。大金を払って教育機器を導入したのであれば,その投資に見合った効果をあげる責任がある。何がしかの効果をあげると約束して契約を結んだチャータースクールであれば,その結果責任が問われて契約が打ち切りになることがある。詰め込み型の教育をきちんとやれば結果責任がとれると思っているようでは,高度情報通信社会の学校としてのアカウンタビリティを満たすことが出来ない,などという具合に用いられる言葉である。

 総合的な学習の時間は規制緩和のもとにあり,「何をやってもいい時間」ではあるが,単なる息抜きの時間ではない。明確な目標が,全国共通に掲げられている。目標へ到達するための手段は,各学校の裁量で,各先生の創意工夫で,最善手を選択・創造することが求められている。つまり,「総合的な学習の時間は,こういうことをやっています」という説明をするだけでは不十分であり,「目標に向けてこのような成果をあげています」と言える証拠を示す必要がある。ポートフォリオ評価は,学校の自己評価にも求められているのである。

 でも,慌てることはない。生徒と一緒にあれこれ考えながら,進むべき方向を決めていこう。事前にばっちり準備して,生徒に何を聞かれても大丈夫にしておく,という堅苦しさは,少なくとも総合的な学習には似合わない。生徒の気持ちに寄り添って,先生も一緒に楽しみながら,アイディアを出して助言していく。そんな心のゆとりをもって総合的な学習の時間を生徒とともに過ごし,何が創り出せたかをともに味わえるように,証拠を積み重ねて欲しい。やり遂げた生徒にも先生にも,達成感や自己効力感が味わえるように。


参考文献: