『山形教育』317号原稿(脱稿2001.1.12.)
特集:情報化社会と学校教育


迷うことなくしっかりとした授業づくりを


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明


はじめに


 山形から見ると奥羽山脈の裏側にある作並温泉に居を構えて10年間住んだ私は,2年前に滝沢村に引っ越しをした。天童の蕎麦屋まで車で40分の立地条件が嫌になったわけではない。国道112号線を2時間少しで辿り着く知り合いの造り酒屋から遠ざかりたかったわけでもない。教育にことさら熱い情熱を傾けておられる西澤潤一学長の肝いりで日本で初めて命名された「ソフトウェア情報学部」で何か新しいことをやってみたいと思い,作並の地の利を犠牲にしたのである。その後,山形との付き合いも途絶えず,また新しい出会いもあり,山形の地を訪れる機会があるのが嬉しい。

 大学の近くに住みたい一心で滝沢村に借家した。この我が家がどのように「情報化」に備えたのかについては,他所(鈴木,1999a)で紹介した。そのときに,情報化に対して学校は,新しい何かを付加して子どもたちを情報化に備えると同時に,「学校の常識に ついて見直して、抜本的な『内なる改革』に着手されることを切に願うものである」と述べた。学校を外から見ている筆者には,中におられる先生方にはあまりにも当たり前すぎることが,とても奇異に見えることがある,と言いたかったからである。

 今ここに,山形の先生方に向けてメッセージを寄せる機会をいただいたが,述べたいことは同じことになる。情報化だインターネットだ,あるいは総合的な学習の時間だと矢継ぎ早に目新しきものが学校にもたらされ,注目を浴びている。一方で,それ以外の,今までの続きになることについては,あまり語られない。変動の中にこそ,受け継ぐべきものと変えていくものの見極めが求められるのであり,新しいものばかりでなく,古くからのものを如何に捉えなおしていくのかに目を向けることが肝要である。迷うことなくしっかりとした授業づくりを祈りつつ,筆を進めてみたい。


情報教育はパソコンなしでもできる

 文部省的に言えば,情報教育とは,情報活用能力を育成することを指す。情報活用能力とは,情報活用の実践力と科学的な理解,それに社会に参画する態度である。パソコンの「パ」の字も出てこない。だから機械なしでも情報教育は可能である。ところが,情報教育と言えば,パソコンを使えるようにすることだと考えている人が多い。これは誤解である。情報教育といえば,ホームページで調べたり電子メールを使わせることだと思っている人も最近は増えている。これも誤解である。もちろん,そういう道具を使って情報教育をやってもいい。でも使わなければできない,ということではない。

 「今の子どもは情報教育が受けられるから幸せ。私ももう少し遅く生まれてくれば大学生になってからキーボードを初めて触ることにはならなかった。将来,パソコンやインターネットが得意な後輩に囲まれても困らないようにと,焦りを感じています。」と,ある大学生の弁。確かに今からでも遅くはないから,いろいろと挑戦してみることだ,と勧める。生涯学習の時代だから。しかし,君たちが情報教育を受けてこなかったというのは間違いだ,との指摘も忘れない。だって,情報教育はパソコン教育とは違うのだから。

 そういうと,あっけにとられた顔をする。そこで私,「情報とは暗記するものだ,とにかく頭に叩き込め。多く情報を覚えているものが勝つ。先生の言うことに間違いはないから信用して良い。」これが我々が受けてきた情報教育だ。今の情報教育は違う(はずなのですが)。情報とは絶えず変化するもの。情報とは玉石混交で思惑含みだから用心して必要なものだけを取捨選択しなければならない。いらない情報は捨てろ。偏った情報を見抜け。自分からも積極的に発信せよ。子どもにはそう教えなさい。

 確かに「情報教育」という言葉は使わなかったかも知れないが,私たちの世代も,立派な情報教育を受けてきた。護送船団方式で,上長の命令を素直に受け入れて着実に作業をこなす人間を育てるために都合が良い「情報」に対する促え方に基づいて。ところが世の中が変わってしまった。そんなナイーブな感化されやすいままでは,変化の荒波の中に巣立っていくことは難しい。そんな世の中になった。ただ覚えてきたことだけで生涯働くこともできず,絶えず新しい何かを学び続ける必要がある。黙々と働き続けるだけでなく,自己主張をしなければ自分を守っていきにくい。そんなわけで,素直に覚えるだけの情報教育から,活用能力が重視される情報教育になったと見れば良い。もっとも,心ある教師は,昔から「自分が教えることが絶対だ」とは言わなかったし,「自分の目でしっかりと見て解釈すること」の大切さを教えてきたわけで,それが情報教育という名の下に再認識されただけのことなのだが。


総合的な学習の時間は腕のみせどころ

 さて,情報教育について述べるときに,昨今欠かせないのが,総合的な学習の時間である。総合的学習は、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する力をつけるために導入されるという。情報を鵜呑みにせず自分の目的を意識して活用する力をつける,と言い換えれば,まさに情報教育そのものになる。もちろん,総合的な学習のテーマとなる国際理解教育や環境教育などを実施する際にも,最新情報をインターネットで収集したり,海外の子どもたちとの交流をテレビ会議で行ったりと,情報通信手段の活用が望まれている。何をやるにも情報教育の目的である「実践力育成」が副産物としてついてくることになろう。

 せっかく新しく始まる総合的な学習の時間を少しでも有意義に計画してもらおうという主旨で,(社)日本教育工学振興会がまとめた小冊子『先生のためのガイドブック みんなが生き生き総合的な学習の時間〜インターネットでひと工夫〜』がある。文部省委託事業として初心者にもわかりやすく,実践事例に即してつくられている。筆者も,中学校部会担当の副委員長として参画し,大変勉強になった。1冊700円という手頃な値段設定もあり,好評とのことだが,もうお手にとられただろうか。

 新しい道具をつかうことで,何か新しい学びが予感できるとすれば,それを利用するのも良い。インターネットは強力な道具だから,より豊かな学習環境として大いに期待できる。ただし,使えば良いというものではない。インターネットを使うことが情報教育の目的ではないのだから,この強力な道具に振り回されないよう,しっかりと使いこなす覚悟をして臨もう。新しい道具をいかに使うか,授業づくりの腕の見せ所である。道具はインターネットに限らない。とにかく子どもたちに情報活用能力が身に付いてきたな,と実感できれば,総合的な学習の時間は大成功である。実践力を身につけ,科学的な理解を求め,そして社会に参画する態度を培えば,世界の難問にチャレンジしていくだけの勇気と知恵をもった子どもが育つであろうから。

 ひるがえって,教科の学習は今までと同じで良いのだろうか。教科の学習がせっかく芽生えはじめる情報活用能力を押しつぶすことになっていないかどうか,確認したいものだと思う。教科学習の行き詰まりが,総合的な学習の時間の新設に踏み切らせたのかも知れない。しかし,そのことは,教科学習をおろそかにしてもいい,ということとは違う。

 「各教科で目指してきた理想像は総合的学習の目的と相反するものなのであろうか。筆者の目には、そうは映らない。むしろ、各教科の理想像が置き去りにされている授業の現状が問題なのではないか。克服されるべきは教科主義ではなく、教科主義と言う名の『なぞり』、『丸暗記』、『あてもの学習』ではないか。」(鈴木,1999b)という思いは変わらない。「なぞり」とは、マニュアル依存授業,「丸暗記」は、なるべく広範囲のことに触れたというアリバイづくり、「あてもの学習」とは、何が教師がここで望んでいる答えかをあてることに腐心する学習のことを指す。

 教科学習の日常を,あらためて見直すことを忘れないようにしたい。総合的な学習の導入で一番試されているのは,教科学習における教師の腕だと思えば間違いない。


授業デザイナーになる

 総合的な学習の時間を新たにつくっていく場合もさることながら,各教科の時間についても再検討を加えようとしたとき,役に立つのが「授業デザイナー」の視点である。我田引水であるが,これが筆者の専門なのでご勘弁願いたい。最もありがたいのは,拙著『放送利用からの授業デザイナー入門—若い先生へのメッセージ—』(日本放送教育協会刊,1995年)を読んでいただくことであるが,そのさわりを申し述べることにする。

 授業を設計(デザイン)する目的は授業をよりよくするためであるが,より良い授業にするとは,効果を高め,効率よく,魅力的な授業にすることだと考える。そのためには,多くの問題が山積している。



などである。それらの問題に対して,しろうとでもわかりやすく,様々な実践者の知恵と工夫を結集しやすい枠組みが提案されている。たとえば,失敗を次に生かすためのシステム的アプローチ,学びのプロセスを助ける作戦を整理したガニェの9教授事象,授業・教材を魅力あるものにするためのケラーのARCS動機づけモデル,教師主導の一斉授業を問い直すブランソンの情報技術型学校モデル,学習成果の個人差を説明するキャロルの学校学習モデルなどが,筆者お勧めの枠組みである。

 これらの枠組みを参照しながら,何を目指して,どんな学習環境の中でどんな学習活動を仕掛けるか,そして,成果がどの程度あったかをどう確かめ,何を直していくかを実践の中で意識的に考えて行く。これが授業デザイナーになる,ということである。

 なかなか魅力的だとは思いませんか?それが授業デザイナーであるとすれば,すでにもう自分も授業デザイナーだ,とは思いませんか?


おわりに

 筆者も大学教育の現場で教育実践に携わる「授業デザイナー」でありたいと思っているので,先生方に紹介するだけでなく,自分でもいろんな工夫を凝らしている。なにしろ旧態依然として「しゃべるだけ」の授業をやっている総本山は大学だから,言うばかりで何もやらない人にならないように注意が必要なのである。

 岩手県立大学ソフトウェア情報学部の鈴木研究室は,いつでも訪問者を歓迎している。もしも岩手までが遠い,というのであれば,ホームページ上で参観していただければ幸いです(http://www.et.soft.iwate-pu.ac.jp)。これまでに引用してきた拙著を含めて,筆者の書いたものは(この原稿も含めて)ホームページ上にあります(http://www.iwate-pu.ac.jp/home/ksuzuki/resume/)。ご活用くださり,感想等をいただければ嬉しいです(ksuzuki@soft.iwate-pu.ac.jp)。


参考文献


鈴木克明(1999a)「情報教育を考える〜学校の情報化はどこへ向かっているのか〜」『放送教育』1999年6月号、 14- 18

鈴木克明(1999b)「総合的学習は様々な教科主義が出会う広場 〜エセ教科主義を克服して、教科主義の復活を〜」『現代教育科学』1999年8月号、 63- 65