『教育展望』2002年10月号原稿(脱稿2002.9.1.)
特集:新教育課程の実施と情報教育


インターネットによる教育の多様化


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明


はじめに:教育の多様化とは何か


 インターネットを授業で活用することによって、教育を多様化させるという。なるほど確かに、2005年を目標に整備が進められている「すべての教室にインターネットを高速接続してパソコン数台とプロジェクタを配置する」ことによって、今まではできなかったことが可能になる。新しい授業方法(あるいはメディア)が一つ増えたことによって、今までと比べて教育が多様化することが見込まれる。

 「インターネットで今の天気図を見てみましょう」とか、「地球の裏側のライブカメラ映像で時差を確かめてみましょう」、あるいは、「減反について米どころ宮城県の友だちはどう思っているか、いまからテレビ会議(あるいは掲示板)で意見交換をしましょう」。こんな授業はインターネットなしでは困難だった。

 今までよりも授業の幅を広げる選択肢が、しかも教室と現実社会をつなげる強力な選択肢が、一つ加わる。子どもから見れば、楽しみが一つ増えた、ということになろう。教師にとっても、授業を演出する道具箱に一つ新しい道具が増えることになる。しかし、同時に、「増えた道具とこれまでの道具も含めて、いつどの道具をどのように組み合わせて使うか」の決断がより複雑になるという側面もある。

 この強力な道具をうまく使いこなせる教師とそうでない教師(あるいは使おうともしない教師)の間で、子どもたちの経験できる授業の質が多様化するという困った事態を招く危険性すらある。テレビ会議で意見交換をさせる授業一つをとってみても、どんな話題を設定し、どんな準備をさせ、どのタイミングでどう進行させるセッションをつくるか。あるいは、テレビ会議とその前後の授業をどうつなげるか、など、コツが多数存在する。どんな道具の場合もそうであるが、テレビ会議にも上手な使い方と下手な使い方がある。教師同士の情報交換を密にして、お互いに良いアイディアを共有することを心がけて欲しい、と思わずにはいられない。

 さて、本稿では、インターネットを使った様々な授業実践のコツをマニュアル的に紹介することは筆者には困難なので、「教育の多様化」について考えるための枠組みをいくつか紹介したい。インターネットによって追加される選択肢の幅を生かして、授業全体をどのように再構成していくかを考える必要があると思うからである。インターネットを使うことにこだわるあまりにワンパターンの授業しかできなくなると、かえって多様化から遠ざかってしまう。子ども一人ひとりの個性やこだわりが尊重され、多様な学びを保証する豊かな学習環境をデザインする枠組みとして参考になることは何だろうか。目指すのは、「自己管理学習」ができる子どもを育てるための多様化である。


求同求異:方法の多様化と目標の多様化

 かつて、個人差に応じて授業を多様化していく議論が盛んに行われたとき、「求同求異」という言葉があみ出された。授業は多様化するけれど全員が同じ目標を目指すのを「求同」と呼び、目指す目標も個々に応じて変えていくのを「求異」と呼んだ。障害者学級を除けば、学習指導要領に記載されている内容はすべての子どもが同じ目標を目指すことが前提となっている。すなわち「求同」である。これを近年騒がれているような「最低基準」と捉えれば、最低基準を目指すか、それ以上の目標を立てるかをたとえば習熟度別クラス編成などで別々に設定することもできる。これは「求異」である。

 専門高校では、数学や英語を最低限の履修に限定する一方で、職業に関する専門科目を履修する時間を確保する。そのため、普通高校で履修する数学IIなどはやらない代わりに、普通高校では履修するチャンスがない農業情報処理とかCADとかの専門科目が履修できる。これも「求異」である。目指す目標(あるいは目標への到達度)を複数設定することは、多様化の一つの形態である。

 一方で、同じ目標を目指す授業(すなわち「求同」)にも多様化の道はある。同じ目標に至る道筋を複数準備することで、学習方法を多様化する形態である。同じ学習内容を教えるときでも、クラスの実態に応じて、別々の授業方法を採用する。逆にいえば、違う方法を採用することで、何とか同じ成果をあげられるように工夫を凝らしている場合がそうである。また、一クラスを構成する子どもたちの多様性に着目して、「その子にあった勉強方法」をいくつか準備して、多様な学習方法を同時に展開する授業も様々に工夫されてきた。学習の個性化・個別化の流れである。

 図書室で調べてもいいし、インターネットを使ってもいいし、あるいはインタビューしてきてもいい。自分の好きな方法で勉強しなさい、という多様性を許容する授業方法を工夫することになる。全員、インターネットのロボット型検索エンジンを使ってこの問題を解きなさい、となれば、方法の多様性は失われる。


総合的な学習は求同

 ところで、総合的な学習は、求異ではなく求同である。たとえば「6年生は環境学習」というような大きなテーマを学年全体で設定するという意味での求同ではない。その中で子どもたちの興味・関心やこだわりを大事にして、とことん極める時間を保証していけば,同じ環境学習でも、学習の成果物は当然、内容の異なるものになる。同じ活動の報告であっても、表現の仕方にも様々な個性的な工夫が見られ、全員同じにはならない。みんなてんでんばらばらだから、せめて報告書の体裁ぐらいは共通にして、同じ枠組みを用いて2ページにまとめるから求同になる、という訳でもない。

 総合的学習が求同であるのは、多様性の中に共通して育てたい「調べてまとめて伝える力」があるという点においてである。全員に生きる力を育てるから求同、と言っても良い。一見個々ばらばらな活動を展開しているので、ややもすると、一人ひとりに違う力を育てることを目指している(つまり求異の)学習に見えてしまいがちである。しかし、そこには、「自分のこだわりを大切にしている」ことや「自分が表現を自分なりに工夫している」ことが共通に存在し、情報活用能力の育成という共通の目標に向かった、多様な学習プロセスを展開させることが求められている。

 たとえば環境教育という大テーマを共通に掲げることによって、環境教育に詳しい子どもを育てる、という求同があるわけではない(結果的にそうなってしまうことは副次的な成果ではあるとしても)。大テーマを共通にすることで、同じ素材や活動を通して個々の追究課題に迫ることを可能にし、かつ、類似の課題を追究しているクラスメイトの活動から互いに刺激を得ることができるようになる。同じ領域で活動するからこそ、互いの観点の違いやアプローチの特徴が比較検討できる。それがひいては、個々の「調べてまとめて伝える力」を高める契機にもなる。


よみがえれ、適性処遇交互作用(ATI)

 授業方法を個別化・個性化しようとする試みの背景には、子ども一人ひとりに学び方の特徴があって、それぞれの特徴に対してもっともふさわしい学習方法は異なるのだとする「適性処遇交互作用(ATI)」の概念があった。たとえば、内向的な学習者に比べて外向的なパーソナリティをもつ学習者にはグループ学習の効果が高い、とか、抽象的情報を好む学習者と具体的情報を好む学習者では有効な情報形態が異なる、といった具合である。

 さらに、学習進度や既有知識・技能が異なる子どもに対して同じ授業を一斉に受けさせるのでは効果が上がらないとの観点から、習熟度別クラス、個別学習、無学年制、完全習得学習、課題選択学習など、様々な授業方法が提案されてきた。

 子ども一人ひとりの多様性に答えるためには、多様な授業方法を用意しなければならないが、一方で、現実の教室では実現できる選択肢の数はそう多くはない。個人差を明らかにしても、その差に応じるための授業を準備できるとは限らないジレンマから、次第に個人差そのものへの関心も薄れていったのかもしれない。インターネットなどの整備により、より多くの選択肢を準備できる環境が整いつつあるのだから、もう一度、子ども一人ひとりの学習スタイルや興味・関心の差に応じて、豊かな学習環境をそれぞれの子どもに用意していくにはどうしたらよいか、という問題意識をよみがえらせることができるはずである。


個人差と学びの関係

 個人差への対応として、まず注目すべき点は、当該の学習にとって必要な前提知識・技能の有無や関連情報の豊かさであろう。いわゆるスタート地点を揃えるために多様な「助走のための学習環境」を準備すれば、一斉に同じ学習が展開できる可能性が高まる。あるいは、学習を進める中で、必要な知識・技能が不十分だということが判明したその時点で、立ち止まって基礎に立ち返って前提知識・技能をその場で学んでからもう一度当該学習に戻ることができるような授業形態(オン・デマンド基礎学習)も、柔軟に個人差に対応する授業方法として注目されてよい。

 直線的に一本道で進む学習ではなく、柔軟に行きつ戻りつ、関連情報を必要に応じて参照する形で学べるのも、デジタル情報の特性である。リンクをたどって学習内容に深みやプラスαを自分なりに追加したり、検索機能で関連情報を収集したり、閑話休題、豆知識、ちょっと一息、コーヒーブレークなどのコラム的内容に思いをはせたりするのも良いだろう。自分の関心に寄り添って学びを進めたり、自分が必要だと思った情報をその場で集めたりしながら、自分にあった学習の軌跡をたどらせることができるといいですね。

 学習スタイルなどの「好みの個人差」も大切にしたいものである。学習に関連した知識や技能をどの程度もっているか、という個人差に加えて、子ども一人ひとりにはそれぞれの好みの学習スタイルや得手不得手がある。毎日こつこつと勉強をするのが好きな子もいれば、まとめて一気にやりたい子もいる。みんなでわいわいがやがや言いながら勉強したい子もいれば、一人で黙々とマイペースで取り組める静かな環境を好む子もいる。読みたい子もいれば聞きたい子もいる。図にすると理解しやすい子もいれば、文章でまとめると理解が進む子もいる。

 様々な勉強のやり方を紹介し、勉強方法の幅を広げてあげることを目的にしたアドバイスを与えたい場面がある一方で、その子なりのやり方や好みを尊重して見守る方が良い場面もある。自分の好きな勉強のやり方を意識させ、いろんなやり方があるから他のやり方も試してみたら、とアドバイスするためには、まずは、子どもが今好きなやり方で勉強させてみることからスタートしたい。


学習意欲を高めるための多様化:自己管理学習へ向けて

 授業方法を多様化することを学習意欲との関係で見てみよう(括弧の中はARCSモデルに基づく動機づけ方略の種類)。授業方法がいつも同じでマンネリ化すると興味が持続しない。多様化しないと飽きる。飽きないように多様化する。これは、多様化の直接的な効果である(A-3:変化性)。

 自分の好みのやり方で勉強することができず、やりたくない方法を強いられることは学習意欲を殺ぐ原因となりかねない(R-3:学習動機との一致)。たとえば、他の子に邪魔されずにマイペースで勉強したい子どもにとっては、グループ学習は辛いものかもしれない。グループでやってもいいし一人でやってもいい、という選択ができればこの問題は解決する。協調性を身につける、という目標には近づけないので、グループでまとめる場面と、個人で取り組む場面を組み合わせるなどの工夫が必要となろう。

 多様性の中から選択させることがもっとも効果的なのは、自己決定・自己責任の原則が子どもの「自信」に与える影響の側面だと思う(C-3:コントロールの個人化)。すべてのお膳立てを先生が整え、「はい、これでやりなさい」式で迫ると、子どもには自分で決めて自分で責任を持つ余地が残らない。他方で、「やり方はいろいろあるから工夫してみなさい」となれば、自分で考え、自分で選び、自分でその結末を引き受けるという一連のプロセスが生じる。これを自己管理学習と呼ぶ。

 最初からこれができれば教師の苦労はないが、だからといって最初から最後までのお膳立てを教師がして授業時間の節約ばかりを気にしていては、いつになっても自己管理学習ができるようにはならない。手本を見せることや、助言をすること、選択幅を徐々に広げること、失敗できる時間的・精神的余地を予め組み入れておくこと、失敗を修正して徐々によりよい結果に至るプロセスを体験させることなど、「自己管理学習」ができる子どもを育てるための手立てを工夫することは大切である。

 総合的な学習で、結論が一つに決まらないような問題に取り組ませることや、インターネットを使って教師が知らない情報までも収集してきてしまう事態になれば、そうそう教師の思うようには学習が進まない。このことが、「自己管理学習」を実現するきっかけになれば、情報教育も総合的な学習もその意義がさらに深まると思う。

 自分が工夫したからできるようになったという自信を持つことができれば、それは、「自分にも学ぶことができるんだ」という気持ち(学習者としての自己概念、という)を持つ土台にもなる。さらに、「勉強というのは自分で工夫して、自分のやり方で自分から進んでやるとおもしろい」という気持ち(学習に対する考え方;学習観、という)を育てることにつながる。「自分はどうせだめだ」とか「勉強はつまらない」という否定的な自己概念や学習観を持たせないための工夫をすることの意義は、計り知れないぐらい大きい。

 学校は、画一的だといわれてきた。何をいつ、どうやって学ぶかがすべて予め決められていて、子どもに任されている部分が少ない。自己管理学習ではなくて、教師管理学習でやってきた。多様化したとしても、「あなたはこれ」と与えられるようでは、その状況はあまり好転しない。何は揃えて、何は違えるのか。同じ目標に向かっていたとしても、何は好きにしていいのか。自己管理学習ができる子どもを育てることを目標にして、豊富な選択肢が準備され、試行錯誤が許される時間が与えられる一方で、それぞれが選んだやり方の成果を自己評価し改善することが求められる厳しさもある。そんな学習環境を実現するために、多様化、というキーワードを吟味し直したいものである。