鈴木克明(2007a)「熊本大学大学院のeラーニング専門家育成」『大学と学生』平成19年2月号原稿(脱稿2007.1.18)


熊本大学大学院のeラーニング専門家育成


熊本大学大学院社会文化科学研究科教授システム学専攻長・教授 鈴木克明



平成18年4月、インストラクショナル・デザインに基づくeラーニングの専門家養成を目指す「日本初の」大学院教育がスタートした。eラーニングに関わっている人たちにとって、長く待ち望まれていた専門教育の道が開かれたことになる。一方で、このニュースが伝わるやいなや、「なぜ、熊本大学が第一号になったのか」という疑問もささやかれた。本稿では、第一号という重責を担うこととなり、身の引き締まる思いで取り組んでいる「eラーニングによるeラーニング専門家養成」のコンセプトと背景について紹介する。


eラーニングによるインターネット型大学院

熊本大学大学院「教授システム学専攻(修士課程)」は、eラーニングによる大学院である。大学設置基準に照らせば「通信制」ではなく「通学制」の大学院であり、通常の修了に2年間、30単位の取得が要求される「ふつう」の教育内容と学習量を伴う「ふつう」の大学院として認可された。

しかし、「ふつう」でないところは、一度も熊本大学に来なくても学位が取得できる点にある。「通学制」という制度の下で実際には一度も通学しない課程は、大学設置基準第二十五条「多様なメディアを高度に利用して、当該授業を行う教室等以外の場所で履修させることができる」に立脚している。非同期双方向でインターネットを利用することで、対面授業に相当する教育を実現すれば単位認定ができるという、法改正が可能にした新しい形態である。

「最先端のeラーニングテクノロジーを活用した遠隔学習により、自宅や職場で働きながら学位(修士)を取得することが可能です。新たな知の創出に向けた学び合い・教え合いをネットワークで支えていきます。」これが本専攻のコンセプトである通称「インターネット型大学院」である。この法改正のもとにいち早くインターネット型大学院をスタートさせたのは信州大学大学院工学系研究科情報工学専攻(2002年4月開設)であった。この意味では、本専攻は「第一号」ではない。「eラーニングによる大学院」であると同時に「eラーニング専門家養成」のカリキュラムを備えたことで、あわせ技的に「第一号」となったわけである。

eラーニング専門家養成の大学院に対する需要は、熊本県にはあまりない。「なぜ熊本大学が第一号になったのか」という疑問の理由の一つは、「なぜ東京の大学ではなく一地方都市にある大学なのか」ということにあっただろうと推察される。事実、本専攻に所属する15名の第一期生のうち10名までもが東京在住(熊本県在住はわずか1名)である。法改正によって、「一度も熊本に来なくても修了できます」といううたい文句を掲げて、一地方都市にある大学が、首都圏の潜在的ニーズに直接働きかけて大学院の新しい課程をスタートさせることが可能になった。「eラーニングの専門家を養成するのだからeラーニングで教育すべきだ」という理由づけもあったことは確かであるが、インターネット型大学院にすることで初めて、熊本からの教育の提供が現実的になった(東京在住の有職者が在職のまま大学院教育を受けることを可能にした)ことも確かである。


インストラクショナル・デザインに基づく専門家養成

本専攻は、教育や学習の効果・効率・魅力を高めるシステム的な方法論であるインストラクショナル・デザイン(ID)を中核に「教授システム学(Instructional Systems)」を学び、eラーニングを実際に開発・実施・評価できる高度専門職業人を養成することを目的としている。教授システム学とは、教育活動やコース・教材をシステムとしてとらえ科学的・工学的にアプローチしようとする教育研究分野であり、科研費の分類では「教育工学」に属する。その適用領域は、目的や学習者の年齢を問わずあらゆる分野の教育・学習に及ぶが、本専攻では企業内・社会人教育と大学教育を中心にカリキュラムを編成している。第1期生として、企業内教育関係の12名に加えて、3名の大学教育関係者を迎えることができたことは、本専攻設置の趣旨にかなうものとなった。

北米や韓国、シンガポールをはじめ、eラーニング先進国と評価される国々においては、IDの普及がeラーニングの量的・質的向上に大きく寄与してきた。そして、それらの国々、特にアメリカでは、大学院教育において、IDと情報技術(IT)を組み合わせ、さらにはこれにマネジメント等を加えたカリキュラムによるeラーニング専門家の養成が行われ、輩出された人材が産業界の教育訓練や高等教育等におけるeラーニングの発展に貢献してきた(鈴木、2005)。

ところが、日本の大学では、eラーニングといえば一部教員の個人的な努力による試行錯誤の実践に頼るのみで、教育効果の高いeラーニングの実施に必要な体系的な知識技能を身につけたeラーニング専門家の支援はほとんど存在しない。企業内教育においても、学問的な裏づけが求められている点では大学と状況は似ている。eラーニングの急速な導入が進み、過剰な期待が成就しなかった反省の中で、「どうもIDという専門分野があるらしい」という認識がようやく共有されるに至ったが、肝心な教育面を担う専門家が養成されていない。今日に至るまで、そうした専門家の養成が大学院教育として組織的に実施されてこなかったことの当然の帰結であった。

eラーニングの専門家となるために、教育活動やコース・教材をシステムとしてとらえ、科学的・工学的にアプローチしようとする教育研究分野である教授システム学を次の4つのIを柱に体系的に修得させる。体系的なカリキュラムをわが国で初めて確立したeラーニング専門家養成の大学院、というのが本専攻の内容面でのコンセプトである。

・ ID= Instructional Design
  教育の効果・効率・魅力を高めるための方法論であるインストラクショナル・デザイン
・ IT= Information Technology
  eラーニングに不可欠な情報通信技術
・ IP= Intellectual Property
  著作権など教育コースを開発・流通する上で重要な知的財産権
・ IM= Instructional Management
  教育活動、教育ビジネスや開発プロジェクトのマネジメント


第一号に至る道筋とこれからの願い

 熊本大学では、総合情報基盤センターの拡充など、ITに関する人的・物的基盤の充実を図ってきた。全学部・全学生を対象とする情報基礎教育、コンピュータを活用した英語学習、工学教育等においてeラーニングを活用し、一定の成果を上げてきた。しかし、教授システム学の視座からみれば、体系的な知見を欠いた実践による試行錯誤の繰り返しではあったが、そうした試行錯誤の産物として、IDに近い教育方法論に行き着いていた。

全学規模でのeラーニング普及のために次に打つ手を模索する中でIDを知り、IDが熊本大学のみならず日本の人材養成にとって、大きな可能性を持つと確信した。そして、ID発祥の地とされるフロリダ州立大学で博士号(教授システム学)を取得した筆者と、企業内教育でIDの実践を続けてきた北村士朗助教授・根本淳子助手をリクルートし、文理融合型の教員組織を整備した。筆者にしてみれば、「すべてのお膳立てが整ったところに招聘を受けた」という幸運に感謝するのみである。

熊本大学は、学長をはじめとする全学的な取組体制の下で、以上の通り、国家的な人材養成課題に取り組む決意を固め、実行に移した。我が国の未来にとっての人材養成の重要性、その中でeラーニングが持つポテンシャルの大きさを考えれば、どこかの大学が行動に移さなければならず、それが熊本大学であってはならない理由はないとの使命感を持っている。それは、自己流で進めてきたeラーニングの限界を感じ、学内にeラーニングを推進するための投資として本専攻の開設を位置づけている切実感が、おそらくは全国の大学に共通しているニーズだと感じられるからである。

平成19年4月には、全学のeラーニングを積極的に展開するための組織「eラーニング推進機構」を新設する。本専攻の教員が率先して、全学のeラーニングが学問的な裏づけを持った形で展開するようにリードすることも期待されている。

本専攻では、ID関係科目のみならず、本専攻の全科目についてIDに基づくカリキュラムづくりに努めてきた。修了生に求めるコンピテンシー(職務遂行能力)リストの設定・公開や、各科目を関連づけたカリキュラムの構造化と科目ごとの課題のコンピテンシーリストへの位置づけ、あるいは全科目に共通した科目設計方針の確立など、いわばIDの考え方を自らの教育に応用し、eラーニング専門家養成を目的とした専攻として恥ずかしくないようなeラーニングの質保証に腐心している(北村ほか、印刷中)。メディア教育開発センターや日本イーラーニングコンソシアムの協力を仰ぎ、産官学連携教育を展望するなど、教育方法も教育内容も「第一号」の名に恥じぬように懸命に取り組んでいる。

我々にとって初めての試み、そして日本でも初めての試みであり、実施段階で多くの課題を克服しながらの自転車操業、というのが初年度の状況である。今後とも、様々な課題を乗り越えながら、多くの支援・協力を得ながら一歩一歩前進していきたい。そして、本専攻の想いを共有してくださる皆様を大学院生としてお迎えし、あるいは様々な機関との連携を育てながら、ともに学ぶことを心から楽しみにしている。

熊本大学大学院社会文化科学研究科教授システム学専攻の詳細は、http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/にアクセスしてください。

参考文献

北村士朗・外11名(印刷中)「eラーニング専門家養成のためのeラーニング大学院における質保証への取組:熊本大学大学院教授システム学専攻の事例」『メディア教育研究』第4巻1号(特集:e-Learning における高等教育の質保証への取組み)

鈴木克明(2005)「〔総説〕e-Learning実践のためのインストラクショナル・デザイン」『日本教育工学会誌』29巻3号(特集号:実践段階のe-Learning)197-205