鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



第4章 〈関心・意欲・態度〉の評価をめぐって


■メッセージ■
情意領域の評価研究が放送教育で進展した理由として、教師が作成した教材ではないので子どもたちが否定的な感情を表明しやすかった点が大きい。これは、授業一般にも通用させるべきことだ。


はじめに
1 何のための評価か?〜評価の多面性〜
2 授業改善のための評価の特徴
3 評価のための評価?〜子どもの学習状況を把握する目的〜
4 情意領域の評価方法
5 放送教育研究での成果とそれを支えたもの〜子どもによる番組批判〜
6 情意領域をどう扱うか?〜無記名アンケートが持つ意味〜
7 評価を授業改善の契機に〜絶対評価と個人内評価の混同を越えて〜

■チェックポイント■
1 「関心・意欲・態度」の評価は何のためにやるのですか?どうしてそれが今日重視されているのですか?



2 子どもが授業に興味を示さない、勉強をやる気になれないとき、それは一体だれのせいですか?



3 相対評価から絶対評価を取り入れた観点別学習状況の重視への変更をどう思いますか?




■メモ■
(本文を読む前に、チェックをしてみての感想などを書き残しておいてください)


はじめに 授業の評価について〜とくに情意領域の評価をめぐって〜

「関心・意欲・態度」の評価といえば、指導要録の改訂を契機として、最近よく登場する話題である。放送教育では、「子どもの興味関心を高める利用方法」「発展的な探求活動への意欲をかきたてる放送利用」「ドラマ形式による社会的態度の育成」など、情意面の教育効果に焦点をあてた実践が古くから盛んである。

最近のいわゆる情意領域に対する関心の高まりは、それ自体としては歓迎すべきことだと思う。学習への興味関心や積極的な態度の育成は、「情報活用能力」「主体的な学習」「自己学習力」「生涯学習」などの現代的課題のすべてにとって、必須の条件となるからである。また、これこそが放送教育の領域で数十年間強調し続けてきたことであり、放送番組の利用価値が再認識される絶好の機会である、と捉えている関係者も少なくないのかもしれない。

情意領域の評価に関する研究が進むこと自体はよいことではあるが、少し気になる点もある。個に応じた評価と指導要録記入への配慮が先行するあまり、子どもの評価が授業を反省する材料、つまり授業の評価の手立てであるという側面が忘れられてはいないだろうか。評価を綿密に行うことが、「関心・意欲・態度」の育成を促すような授業方法の見直しにつながっていくのだろうか。客観的な評価の基準を模索することと、子どもを熟知している担任教師でなければできない、いわば「主観的な評価」との差はどこにあるのだろうか。

本章では、そんな問題意識で、評価(とくに情意領域の評価)について考えてみたい。

1 何のための評価か?

教育評価の専門書によれば、評価とは、意志決定のための情報収集であると定義されている ! 。「だれが」「どんな」意志決定のために「いつ」「どのように」行うかは特定されていないのが特徴的である。日常的に評価ということばから悪いイメージがもたれるのは、評価が子どもの選抜、能力の値踏み、レッテルづけの道具であるという社会的、管理的側面が連想されることと無関係ではあるまい。好むと好まざるとにかかわらず、学校が社会的選抜の機能を果たしているという事実は衆目の認めるところであるし、むしろ学力一本での公平な競争を実現させている制度だという肯定的な見方もある。

一方で、前章までに見てきたガニェに代表される授業設計理論での評価の概念は、同じ意志決定のための情報収集でも、「授業の評価」を目的としたものであり、「子どもの評価」は授業の善し悪しを判断するための材料提供として位置づけられている。授業のねらいがどの程度達成できたのか、ねらいを達成するための手段として選んだ授業のやり方はそれでよかったのか、直すとしたらどこをどう直せばよいのだろうか。これらの疑問に答え、授業を改善することを目的として行われるのが評価である。教師が、自分の授業の改善に資するために行う情報収集が中心となり、そのための手段として子どもを観察し、テストやアンケート、インタビューなどを実施すると考える。実際に用いるデータは同じでも、その目的は記録として残すためではなく、授業を改善するためなのである。

2 授業改善のための評価の特徴

授業の改善を目的とする評価は、授業の良否を判定して授業者に点数を付けるというよりもむしろ、授業をよりよいものに形づくっていくという意味で、「形成的評価」 " に主眼がおかれる。したがって、すべてが終わってからやおら評価を開始するのではなく、不断の設計→実践→評価→設計の見直しの繰り返しが原則となる。また、評価の観点は、授業のねらいに向けて授業の方法の妥当性を点検するという意味で、授業のねらいの達成に基準をおいた「絶対評価」であり、評価が適切に行われたかどうかは、ねらいとの整合性によって判断される。

したがって、もしも授業のねらいに「関心・意欲・態度」のような情意的側面が取り上げられるのならば、そのねらいがどの程度達成できたかを調べるための評価技法を明らかにしておかなければならない。評価の方法はどんな方法を採用するにしても、授業を計画する際に、情意面の状況をどのように把握するつもりかを確認しておく必要があろう。

学習指導案に評価の欄が欠落しているのは論外としても、単に授業のねらいの言いかえを記述してあるだけのものが見受けられる。しかし、それだけでは、この授業のでき具合を「いつ、どんな手段で確かめるのか」が明確とはいえない。評価の時期や方法は授業のねらいを掲げた時点で計画しておき、授業後の検討会には、自評や参観者からのコメントと並んで、あらかじめ計画したとおりに集められた「証拠物件」をもとにして授業を評価したいものだ。授業研究がより具体的になると同時に、授業改善に役立つ評価のあり方も次第に洗練されてくると思われる。

3 評価のための評価?

この考え方の背景には、授業の善し悪しは何よりも子どもが授業のねらいに近づいたかどうかを実際に確かめてからでなければ判断できないとする「学習者検証の原理」 # がある。かつてプログラム学習の原則として提案され、それ以来、実証的な教育研究のより所となっている原則だ。授業とは単に情報を流す(あるいは与える、カバーする)ことのみならず子どもの学習を支援していく営みである。また、授業の流れ具合や授業者の努力の度合いよりも子どもの変化をとらえて授業の善し悪しを判断する。そういった前提に立てば、授業の評価は子どもの学習状況の把握を抜きにして行えるものではないことは明らかである。

授業のねらいが美辞麗句に終わってしまう、ねらいは立派だがそれが授業で実現できたかどうかがはっきりしない、ということがあるとすれば、その原因は評価の計画が不十分だからかもしれない。評価の計画が十分具体的でないのは、どんなゴールに向かって授業をしているのかがはっきりされていないことを物語る。

この授業設計理論の視点に立てば、今回の指導要録改訂において「関心・意欲・態度」の評価を重視するということは、授業のねらいとしてそれを重視せよということであり、その育成につながる授業方法を工夫せよということである。記録を残せばそれで済むという問題ではない。子どもにある評価を与えるということと、自分の授業のでき具合を評価するということとは、常に表裏一体の関係にある。「関心・意欲・態度」の評価が低い子どものやる気のなさを嘆くのではなく、「関心・意欲・態度」を育てられなかった授業のふがいなさを少しでも改めていく。この授業改善への努力を支える最も基本的な視点を忘れてはならない。「関心・意欲・態度」が点数化されていることを察知した子どもが先生の前だけでは興味があるように振る舞うようになるといった本末転倒だけは、何としても避けなければならない。

4 情意領域の評価方法 

さて、「関心・意欲・態度」の高まりをどのようにしたら評価できるのであろうか。この問題は、そう簡単ではない。知識の変化をテストで引っ張りだすことすらも時として難しい作業である。ましてや子どもの気持ちの変化を確かめるのは容易ではない。どうも世の中一般にささいなことは簡単で、重要なことは難しい傾向があるようだから、評価が難しいということ一つをとってみても、情意領域の評価という問題は重要なのだろう。確かにテストづくりが簡単だからといって、いつまでも暗記ものしか評価しないというわけにもいかない。

これまでに提案された方法を体系化した金井によれば、関心や態度の評価は(一)教師による直接観察法、(二)子どもの自己評価による間接観察法、(三)子どもの相互評価による間接観察法に大別できるという。

直接観察法には、あらかじめ用意した子どもの行動の特徴のリストを用いたチェックリスト法、指導上有意義であると思われる偶発的な行動を自由に記録する行動描写法、助言や指導を与えながら評価にも資する面接法などが有効であるとする。

また、間接観察法では、チェックリストを用いて子どもに自己評価させる質問紙法、価値が葛藤している具体的な日常場面を提示して応答を求める問題場面テスト、投影法などの標準化テスト、レポートやノートの反省記録、日誌や作文などによる自己評価及び相互評価、求めている行動や情意の特性に該当すると思われるクラスメイトの氏名をあげさせるゲスフーテスト(相互評価)等が有効としている 。

これらの技法は、情意領域の評価をいかに客観的なものにするのか、つまりだれが何回評価してもばらつきがあまりでないような評価方法を求めての提案である。新しい指導要録になってから、全国で「関心・意欲・態度」をどう評価したらいいかについての模索が続いており、各種のマニュアルも出版されるようになった & 。マスコミでも、例えば授業への関心の度合いを示す指標として手を上げた回数をチェックするという試みが紹介され、その方法論について否定的は見解が紹介されたことがあった $ 。子どもたちが先生の前だけでは興味があるように振る舞うようになるといった本末転倒を危惧したが、評価のやり方を誤ると評価することに振り回される危険性が高いのではないかと懸念される。

客観的な技法を模索する試みがある一方で、子どもたちの情意面の評価は、子どもたちと生活をともにしている教師の主観的な判断で行うことがもっとも妥当な結果を生むという見方もある % 。数字に表せないからといって、「この子は最近やる気が出てきた」と感じる担任教師の主観をないがしろにしてはいけない。初対面の子どもにやる気があるかどうかは主観的に判断できないにしても、子どもたちの学びに付き合う中で、あるいは行動を観察するうちに、子ども一人ひとりのやる気については客観的なテストなしにある程度まで判断できるようになるのではないか。子どもとの二人称の関係がない心理学者にはテストやチェックリストを使わないとできない判断も、一年間付き合ってきた担当の教師にはできる。むしろ、それができないような子どもとの付き合い方しかできていないとしたら、その方が重大な問題だ、というのである。

情意面の評価を客観的にすることは難しい課題であり、子どもを熟知している担任教師の主観的判断に匹敵するだけの評価技法が開発されているのかどうか、心許ない状況ではある。また、客観性を重んじるあまりに数字に現れたものだけを評価とするといった限定的なとらえ方に固執すると、挙手の数を記録するなどの日常的な記録作業に多大な労力を割かれてしまう。評価実施面のコスト(時間、費用、労力など)も考慮しなくてはならないだろう。その上で、実践者一人ひとりが、自分に適した情意面の評価技法を模索する試みを続けるべきである。少なくとも研究課題としては、重要な意味を持つ営みである。

5 放送教育研究での成果

情意領域の評価に関しての放送教育研究での知見は卓越したものがある。とくに、大阪大学(当時)の水越敏行を中心とした研究グループの成果に学ぶものが多い。次に例をいくつかあげておく。

視聴ノートでは、「興味をもったこと」「喜び悲しみを感じたこと」「もっと調べてみたいこと」という興味関心の喚起度を調べる質問項目 / に始まり、「感心した」「くやしい」などの形容詞の選択とその理由の記述による番組への情意的反応の分析 0 、あるいは番組展開に沿って自由記述させた場面ごとの感情ワードの分類と感情傾向(肯定否定、能動受動)の個人差の分析 1 がある。

また、視聴能力テストの標準化を模索した研究では、「続きの番組があれば見たいですか」「時間がたつのが早かったと思いますか」などの学習意欲に関する項目や「場面が早く変わり過ぎる」「説明がはっきりしていない」などの批判的視聴能力、「友達に尋ねてみたいこと」「ひとりでやってみたいこと」「メモしたり絵に書いておきたいと思ったこと」「やり方を真似てみたいと思ったこと」などがあったか(表現性)などの因子を抽出している . 。

6 研究成果を支えたもの

放送教育の領域でこれらの研究成果が得られてきた理由は何であろうか。第一に、もともと放送番組利用の目指していたことが情意領域であったことをあげておきたい。情意領域での授業評価の手法の確立抜きには、放送教育研究の発展が望めないという危機感で取り組んできたことは水越氏自身が述懐するところでもある ( 。どんな授業をしたいのか、もし授業がうまくいったとしたら子どもたちはどんな変化をとげるのだろうか。そんな自問自答の中に評価方法が確立されてきたのだろう。

授業のねらいに情意領域の学習成果を据え、それに近づく手段として選択した授業方法の有効性を問うために情意領域の評価方法を模索していく。この姿勢は、他の授業方法にも拡大し、大いに継承すべきものであると思う。そこには評価のためだけの評価はなく、授業をよりよくするための評価がある。

第二に、子どもたちが遠慮なく番組に対する感情をぶつけることができた(のではないか)ということを指摘したい。放送番組は教師がつくったものでない。この事実は、子どもたちが素直に(特に否定的な感情を)表明できる環境を整えてきたという点において、少なからず影響を与えてきたのではないか。もちろんプロによって磨かれた映像が子どもたちの心を揺さぶり、それが素直に表現されたという点もあろう。しかし、先生が自作したとわかっている教材に「つまらなかった」とは言いにくい。「そこは変なんじゃないか」とも言えなかったのではないか(本来それでは困るのだが)。

放送番組に切り取られた事実は番組制作者が一定の視点から枠をはめたものである、ということを見抜く力(批判的視聴能力)を育てることが重要であると言われてきた。このことは、実は放送番組の場合に限ったことではない。子どもの情意的な変化をとらえ、それを授業の評価に生かそうとする際には、遠慮なく授業を批判できる環境が欠かせない。そこには、学習者による授業(者)の評価という側面が伴うことになるからである。子どもたちにとって、教師の求める答えを必死で捜し当てようとする「あてもの学習」 ) が情意領域に及ぶことほど悲惨なことはない。

7 情意領域をどう扱うか?

アメリカ流の授業設計研究では、研究の中心は認知領域の学習支援におかれてきた。暗黙の了解として、わかりやすい授業を設計することによって興味関心を引き、学習意欲を高めようとする傾向があった。確かに、授業がわかりにくいものであれば、そのままの状態で「関心・意欲・態度」だけを高めることは困難である。「知識・理解」の内実を伴わない表面的な繕いだけでは、高まった意欲もそう長続きするわけはない。情意領域の高まりの原因が「まじめに勉強しなさい」という教師の叱咤激励にあったというのでは、学習内容への関心とは違うものになる。

しかし、他方で、内実を充実するという大義名分で詰め込みに熱心なあまりに、成績だけは上がっても「もう二度と勉強したくない」という思いが同時に育ったのでは困る。道徳や環境教育での「態度の育成」だけでなく、各教科における「学習意欲の育成」が叫ばれている。生涯学習の時代に向けて、学習すること自体の楽しさや教科内容への興味なども重要な課題である 2 。

評価方法としては、態度が個人的選択の傾向性を左右する心的状況をあらわすことから、選択行動を〈わからないように観察すること〉が基本とならざるを得ない。態度の自己申告を求める方法では、いかなる方法を用いようとも自分の本当の気持ちを申告するよりも「ここで求められている態度は何か」という問いに対して正解と思われる態度をあらわすように偏って申告してしまう傾向がある。このことは繰り返し指摘されており * 、とくに注意が必要だ。授業改善のための評価という視点に立てば、例えば〈無記名アンケート〉という発想もありうる。教師と子どもの信頼関係を確立する方が評価の技術的な問題よりももっと大切だ、という声が聞こえてきそうではあるが…。

8 評価を授業改善の契機に

最後に、絶対評価と個人内評価の混同が見られる点を指摘しておきたい。「関心・意欲・態度」の評価が観点別学習状況の筆頭に位置づけられ、しかもそれが絶対評価を基本とすると言われている + 。反面、一人ひとりの特性に応じる指導が要求され、このことの帰結として「十分満足できると判断される」A基準などは子ども一人ひとりに対して個別に設定できるとする誤解が見受けられる。これは、個人内評価(個人の進捗状況、つまりどの程度上達したか、に基づく評価)という絶対評価とは別の考え方である。

同一のカリキュラムに基づく指導を行う限り、各教科の目標に照らしてその到達度を評価するものさし(観点別学習状況)は全員に共通な基準を用いなければならない。それは、学習指導要領に基づく学習目標に達したか否かの一点で判断される性質のものである。子どもの状況に応じて個別に基準を設定するという行為は、個別に異なるカリキュラムを設定することに等しい。例えば、ある目標に対して70%程度達成できた二人の子どもに対して、ダメ男はここまでできればA、ヨシ子はもう少し進んでなければAでないと判断するためには、その判断基準を示すカリキュラムが(例えば有名私立高校進学コースと就職コースのように)別々に用意されている必要がある。

「クラスによってあまり差がつかないようにAはおおよそ何人ぐらいにしましょう」などと教師間で協定を結ぶのは相対評価の悪癖が抜け切らない証拠である。人数の割り振りではなく、学習指導要領の示す内容をめぐって基準そのものについて話し合い、評価の手段と合格基準をあらかじめ設定する。そして、それに達すれば何人でもAをつける。それが、絶対評価である。逆に、その基準に達しない子どもにAをつけることは、許されない。たとえその子が格段に進歩したとしても(つまり、個人内評価では格段の進歩により高い評価でも)、基準未満は断じてAにならないのが絶対評価だ。

「関心・意欲・態度」の評価を重視するようになったからといって、今まで教えていた事柄を教えないでよくなったわけではない。単に、教え方にさらなる工夫を求められているだけである。同様に、絶対評価を取り入れたからといって、すべての子どもが基準に到達できるようになるわけではなく、また、努力した子ども全員がAに到達するとも限らない。カリキュラムが現実的なものであり、子どもが持っている力を発揮し(必要な時間を学習に費やし)、しかも授業が効果的に実施された場合にはじめて、Aに到達させることができる。Aの数がクラスによってばらつく場合、それはクラス編成が偏っていたか、さもなければ教師の力量の差が単に形になって表面化しただけのことである。

絶対評価は歓迎されるべきものである。それは、今までの問題点をすべて裸にする役割を持っていると思われるからである。相対評価では、カリキュラムがどんなに現実離れしていても相対的に見てAの子どももCの子どももいた。カリキュラムが現実的でない場合、相対評価よりも絶対評価の方がCの数が増えるのが当然の結果となる。Aの数がゼロということも当然ありうる。絶対評価を個人内評価にすりかえて、数を合わせることだけは避けなければならないと思う。問題点を明らかにすることが改善への第一歩であると思えばこそ、あえてそう申し上げたい。

評価の問題は、なかなかやっかいなものである。しかし、それは同時に自らの授業実践を振り返り、改善への糸口をつかむための重要な営みでもある。授業の評価という視点で、これを機会にゆっくりと振り返っていただければ幸いである。

〈注〉
!東洋他(編)(一九八八)『現代教育評価事典』金子書房では、「なんらの意思決定にも寄与しないテストや評価は、教育的に無意味であると考えるのが、現代の教育評価の一大潮流である(一二頁)。」としている。
" 「形成的評価」という用語は、日本では子どもの知識技能を完全習得まで導くための評価という意味合いで用いられることが多い(たとえば、梶田叡一(一九九二)『教育評価(第二版)』 有斐閣、第3章)。その意味では、形を成していく(形成的)対象は学習者とされる。アメリカの授業設計モデルでこの用語を用いるときには、授業案や教材を設計する上で、開発途上で設計者自身の手によってなされる評価を指す。ここでは、形を成していく対象は、学習者ではなく授業案・教材そのものである。技法についての詳細は、鈴木克明(一九九〇)「CAI教材の設計開発における形成的評価の技法について」『視聴覚教育研究』第一七号、一〜一○頁を参照。
# 東洋他(編)(一九七九)『新教育の事典』平凡社、七〜八頁
金井達蔵編著(一九八五)『中学校関心・態度ーその理論と指導と評価ー』図書文化
& たとえば、北尾倫彦(編)(一九九五)『観点別学習状況の評価基準表』図書文化では、小学校学年別、中学校教科別に単元ごとの観点別評価目標と評価場面、具体的評価目標とその判定基準を示している。
$ NHK総合テレビ「」一九九三年?月?日放送**********
% 奥田真丈他(一九九二)『新しい学力観と評価観:徹底討論絶対評価の考え方』小学館、八四頁(奥田の発言)
/ 水越敏行(一九七六)『授業評価の研究』明治図書(現代授業論双書二○)、一七一頁
0水越敏行(編著)(一九八一)『視聴能力の形成と評価』、日本放送教育協会(放送教育叢書七)、九四頁
1水越敏行(編著)(一九八一)『視聴能力の形成と評価』、日本放送教育協会(放送教育叢書七)、第三章(イメージや情意の形成と放送教育)
. 水越敏行編著(一九八六)『NEW放送教育—メディア・ミックスと新しい評価—』、日本放送教育協会(放送教育叢書一四)、第七章
( 水越氏の述懐の出典***********
) 当てもの学習とは、「自分の経験や思考によって問題を解決するのではなく、この問題にはどう答えたら先生のお気に入るだろうかを当てようとする学習である」。沼野一男(一九八六)『情報化社会と教師の仕事』国土社(教育選書八)、一六六頁。沼野は、当てもの学習がはびこると、子どもの「問う」力を損ね、先生の言うことだけを受け入れる主体性のない子どもをつくってしまうと警鐘を鳴らしている。
2 次の二つの章で、詳しく取り上げる。
* たとえば、ガニェ、R・M、ブリッグス、J・L著、持留訳(一九八六)『カリキュラムと授業の構成』北大路書房、二一一〜二一二頁
+ ・奥田真丈他(一九九二)『新しい学力観と評価観:徹底討論絶対評価の考え方』小学館、八六頁
 ・辰野千壽(一九九三)『新しい学力観に立った学習評価基本ハンドブック〜指導効果があがる評価の生かし方〜』図書文化、六二頁


■チェックポイントのチェック(解答)■
1 「指導要録が改訂されたから」「指導要録に記載するため」という答えはいささか寂しいですね。指導要録は新学力観を反映するために改訂されたとのことです。その新学力観を実現する様な授業を工夫したいものです。
2 「先生の授業がつまらない」と子どもに批判されたとき、それにどう答えるかによって、その先生の授業観が暴露されると言います(沼野一男(一九七六)『授業の設計入門—ソフトウェアの教授工学—』国土社のはしがき参照)。「意欲のなさ」を子どもだけのせいにして自分の授業を省みない教師にはなりたくないものです。
3 カリキュラムの無理を放置して絶対評価を取り入れると、どこかに矛盾を生む結果になるのではと心配しています。でも、うやむやにして欲しくない問題です。