鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



第8章 授業デザイナーとしての教師の力量


■メッセージ■
授業のでき具合を確かめる手だて(テストを含む)は授業を実施する前に準備しておくべきだ。


はじめに
1 授業を設計するのですか?
2 授業を設計しないのですか?
3 バランス感覚と効率重視
4 ゴール達成の重視
5 メーガーの3つの質問
6 授業設計の整合性と「三色もなか」
7 私にも使える科学的な方法論


■チェックポイント■

1 授業は設計できるものだと思いますか?   はい・いいえ

  なぜそう思うのですか?




2 あなたは、自分の授業がうまくいったかどうかを確かめるためのテストを自作できますか?                  はい・いいえ


■メモ■
(本文を読む前に、チェックをしてみての感想などを書き残しておいてください)


はじめに メディアとして以外の教師の役割とは何か

前章では、メディアとしての放送(特に教育番組)と教師のかかわりについて吟味した。放送や教科書やOHPだけでなく、教師自身も実は「メディア」の一つとして授業を実現していることを述べた。この章では、自分自身も含めた多種多様なメディア(助っ人)を使いこなし、子どもの学びを支援する授業を設計する教師の役割について考えてみたい。授業を設計するとはそもそもどんなことを意味するのだろうか。いわゆるアクター(即ちメディア)としての教師を背後から支えるデザイナーとして自分の授業を設計するためには、どのような力量が求められているのだろうか。そんなことを考えてみたい。

1 授業を設計するのですか?

そもそも授業を設計(design)する、あるいは授業デザインとは何を指して言うのだろうか。「設計」あるいは「デザイン」という言葉をことさら用いなくても、教師は日常の授業案を考え、授業を営んでいる。子どもたちの顔を思い浮かべながら授業で使えそうなネタを探し、授業の起承転結を構成し、準備物を整えて授業に臨む。放送番組を使うときも使わないときも、公開研究授業でもふだん着の授業でも、具体化の程度の差こそあれ、授業の計画をあらかじめ頭に描いて教壇に立っている。日常の雑務に追われる毎日で、もう少しじっくり教材研究をして授業に臨みたい、との思いがなかなか実現できないで悩んでいるといったところであろうか。

授業実践の積み重ねから、ベテランになれば自分の授業スタイルを確立し、事前の準備に必要な時間も徐々に少なくてすむようになるのかもしれない。あるいは逆に経験を積めば積むほど、授業について考えれば考えるほど、「授業というのは奥が深いものだ」との思いを強くする方も少なくないはずだ。そんな経験と授業への思いに支えられたベテランの授業実践から学ぶものは図り知れないほど豊富で、憧れの的でもある。教師として、あの先生のようになれたらいいなと思う理想像は、だれしもが持っていると思う。

人と人とがぶつかりあう授業に対して、設計(デザイン)という言葉を使わなくても「計画」でよいのではないか。それならば教師である以上、毎日だれでもやっていることだ。そもそも授業は「生き物」であるから、あらかじめ詳細に設計などできるはずはない。細かく計画を立てれば立てるほどダイナミックな授業進行が難しくなり、(公開授業の時のようなよそゆきの)予定調和的で型にはまった薄っぺらい授業になってしまう危険性すらある。大筋で計画してきたことを子どもたちにぶつけて、子どもの顔を見ながらその場で臨機応変に変更しながら授業を構成していく力が大切なのだ。

教壇に立つ日を夢見ていた学生の頃、もし筆者が「授業設計」という言葉を耳にしたら、おそらくこんな類の反応をしたに違いない。当時、漠然と中学校の教師になろうと考え、数学と英語の免許を両方とれないものかと調べ回っていた。そんな中、日本語を使わずに絵や文脈で初級英語を教えるGDM という英語教育法に出会い、中学校の英語教師への道を歩もうと決意した。

その後、視聴覚教育や教育工学の研究に触れ、渡米して教育工学の中でもシステム的な授業設計(Instructional Design)を中核とするフロリダ州立大学大学院に学んだ。そこでは、松尾芭蕉の「不易と流行」になぞらえれば、メディアは時代と共に代わるもの(流行)、授業設計の考え方はどんなメディアを用いる授業にも有効な方法(不易)という立場で、カリキュラムが組まれていた。日本でも耳にしていた授業設計という言葉が英語になるだけで、とても新鮮に感じられたものだった。

この経験を通して、自分自身の考え方もずいぶん柔軟になってきたものだと思う。言葉で表すと少し変だが、四角四面のカッチリした設計という考え方も悪くはないと思える柔軟性がでてきた。それまで柔軟な授業へ固執していた自分が柔軟でないなと気づいたと言ったらよいのだろうか。

2 授業を設計しないのですか?

授業設計とは、授業の青写真を描くことである $ 。我が家を新築する際の「設計図」を思い浮かべればよい。リビングはなるべく広く、大きな窓が欲しい。できれば天井も高くしたい。台所は対面式にして食事の準備中も家族の会話に加われるようにしたい。夢は膨らむ一方であるが、現実は厳しい。予算も土地も限られているので巨大な家を建てることもできないとすれば、何かを得るためには何かを犠牲にしなくてはならない。リビングを広くする代わりに各自の寝室は狭くてもしかたないとか、吹き抜けにしたかったが二階にもう一部屋確保するためにそれをあきらめるといった具合に折り合いをつけて、設計図をつくっていく。設計図ができれば水回り、電気やガスの配線、構造的な強度など技術的な観点からのチェックを加え、場合によっては「部屋の中にどうしても柱が一本立ってしまう」などということも余儀なくされるかもしれない。

設計という言葉には、技術的な条件の存在が含まれている。家を建てるのであれば、理想の家づくりを設計図に表現する際に、例えば水回り、例えば配線図といったどの家にも共通して備わっている条件がある。配線図がきちんと描けたからといって住みやすい家ができるわけではないが、電気の配線図を用意することはどの家づくりにも必要な条件の一つである。

人にものを教えようとする場合もそれは同じだ。どんな授業にも共通して具備していたほうがよいことには、例えば第2章で紹介したガニェの九教授事象のような子どもの学びを助けるという観点からの工夫がある。この枠組みを何の目的のために使うのか、あるいはそれをどのように実現していくのかは授業を構想する人によってさまざまだろう。しかし、授業が学びを助けることを目的として行われる限り、学習心理学の研究成果を踏まえていた方がよいことは明らかである。

技術的な条件を備えている授業の方がそうでない授業より学びを助ける可能性が高いのならば、授業を計画する際にその条件を検討するのも悪くない。授業者の意図をより確かに伝えるための視聴覚コミュニケーション、あるいは子ども同士の学習活動をより効果的に組織するためのリーダーシップ論などの観点から、授業の技術的条件を踏まえて授業を設計してみるのも悪くない。技術的な条件を具備したからといって、ベテランの授業の足元にも及ばないかもしれないが、何か手がかりがつかめるかもしれない。いろいろな授業を比べてみるときの、あるいはベテランの授業の何がすごいのかを読み取るための枠組みになるかもしれない。そう思うようになったのである。

3 バランス感覚と効率重視

設計という言葉には、技術的な要素が含まれていることの他にも、さまざまなニュアンスが込められている。まず、全体との関係からのバランスを保つために構成要素の取捨選択を迫るということが挙げられる。家を建てるときには、予算の制約があり所有している土地の広さも無限大ではない。同じように、授業で伝えたいこと扱いたいことは山ほどあっても、授業時間は無制限にあるわけではない。子どもたちの理解力にも限りがあるから、教師がスピード違反をしてまくしたてて、教師にやらなければならないことを網羅したという安堵感があっても、子どもに学びが成立するかどうかは定かではない。授業時間に限りがあるからこそ、時間を有効に使おうとする工夫が必要になる。同じことを達成するのならばなるべく短時間でという発想、つまり効率重視の発想は、そこから生まれる。

一度きっちりとした設計を行うことは、それに縛られて身動きができなくなることを必ずしも意味しない。それはむしろ、計画変更に伴う長所短所を瞬時に明らかにするという効果を生む。例えば、ある授業が予想を越えて白熱し授業時間の延長が必要であると感じたとき、ここでこの授業を延長するとどこかにそのしわよせが生じることを考慮する必要がある。年間計画があるのにも関わらず教科書の三分の二しか終わらないという事態は、何を捨てて何を取るかを見極められないバランス感覚の欠如から発生する。そもそも、綿密な計画がないところに臨機応変はない。計画がなければ、それを変更するという行為はない。行き当たりばったりのみが存在する。

筆者が旅に出るときは、なるべくツアーを避けて気ままに過ごすようにしている。しかし、出発前に旅の情報は綿密に集め、計画もきっちり立てる。貴重な時間をなるべくうまく使いたいと思うからであり、計画を立てること自体が旅の楽しみの一部だと思うからでもある。例えばパリの二日間。ルーブル美術館は一日では鑑賞できない。しかし、ここであと一日予定を割くとパリ郊外の街シャルトルを訪ねる日が取れない。ルーブルに一日、シャルトルに一日と計画する。いざ行ってみると、いつも現地で過ごす時間は不足するので、現地での計画修正の連続になる。実際に訪ねて、やはりルーブルでもう一日と思うかもしれない。予定どおりに旅をすすめるかここで変更するかはその日に決めるとしても、事前に旅行日程の詳細を検討しておかなければその場で的確な判断はできないだろう。計画をじっくりとながめることで、ここで予定より時間を使うことが他に及ぼす影響を考え、ここで得るものと他で失うものを秤にかけて決断を下すことになる。どちらを捨てるにしても「また来ればいいさ」というのが筆者の結論で、旅は止められなくなるのではあるが…。

授業にせよ旅行にせよ、やりたいことの割に時間が限られているのが世の常だから、設計という言葉の裏にある「効率」や「バランス」という観点も捨てがたいと思うようになった。

4 ゴール達成の重視

設計という言葉は、青写真をつくるという最終作品の姿を表すと同時に、その作成手順が目的からの「逆順」であることを示唆している。いきなり授業の起承転結をどうしようか、という手順の計画に入らないことを強調する意味が込められている。家を建てるときには、材料や作業日程を心配する前に「どんな家を建てたいのか」を十分に検討する。それと同じように、授業の設計でも「子どもたちがどう変化する授業なのか」をまず十分に吟味する。どうやって授業をするか(How)より前に、何を学ばせるのか(What)、それをなぜ学ばせるのか(Why)を検討せよというわけである。

授業の計画を建てる際、最も大まかでよい「本時の指導過程」が最も詳細に記述され、最も議論が必要な「中学校三年間の社会科でどういう教育を行うのか」とか「今年度の研究では何を明らかにするのか」という全体的なゴールが美辞麗句の羅列で終わってしまうことが少なくない。美辞麗句の文言については慎重に検討を重ねる。しかし、それを日々の授業実践のなかにどう実現していくのかという最も肝心な点、つまり大きい目標と一時間ずつの授業をどう結び付けていくのかについての吟味が一番最後にまわされてしまう。そうなると、教科書の何頁から何頁までを終わらせるというノルマが目標にすりかわり、木を見て森を見ずの罠に陥ってしまう。

設計という言葉を使うのであれば、授業設計はゴール達成へ向けての計画であり、その手段は柔軟に、いろいろな可能性の中からゴールへの近づき具合いをもとにして最善手を選んでいく。旅で時間が不足してどちらを取るかという局面に立たされたときには、「どちらを選択することがこの旅全体を見たときにふさわしいか」を考えればよい。大きな目標が見えていれば、思い切ってあきらめる勇気、捨てる勇気がもてる。選択の理由がはっきりしているので、後悔も少なくてすむ。目標を重視し、それに一歩ずつ近づいていくという考え方にすっかり魅力を感じてしまった。

5 メーガーの三つの質問

授業設計の考え方を最も端的に表しているものに、メーガーの三つの質問がある。授業設計、すなわち授業計画のシステム的なアプローチが盛んに議論されたころ、米国の教育工学研究者ロバート・メーガー(Robert F. Mager)が次の三つの質問の大切さを指摘した ! 。

Where am I going? (どこへ行くのか?)
How do I know when I get there?(たどりついたかどうかをどうやって知るのか?)
How do I get there?(どうやってそこへ行くのか?)

一つ目の質問は、どこへ行くのかについてである。つまり授業の目指すものを、子どもたちのどんな学習を支援していくのかという観点から明確にすることである。二つ目の質問は、たどりついたかどうかをどうやって知るのか、つまり目標達成を評価する方法を明らかにすることである。「富士山の山頂に登る」というのであれば「富士山頂」の看板があるから「ここが富士山頂であり目標を達成した」という事実は明白である。しかし、子どもの学びを助けることが授業の目標であれば、評価は登山ほど簡単ではない。頭のなかはのぞけないし、子どもたちが学習目標に到達したことをいかにして確かめるかの手だてをあらかじめ考えておく必要がある。そして三つ目が、授業のゴールにたどりつかせる方法を考えることである。一旦ゴールが明確になれば、登山道が何本もあるように、ゴールに至る道筋はひとつではない。あれこれ授業のネタを工夫して、自分の得意な方法で、一人でも多くの子どもが無事ゴールを極めるように作戦を立てることになる。

ところで、富士山頂に登るという一見とても明らかな目標に見えるものも、実はその先にある目標のための一つの手段であるかもしれない。「日本一高いところに行くこと」や「御来光を仰ぐこと」が目標であれば、最も楽な方法としてなるべく上まで交通機関を利用して、歩かずに登るのもよい。逆に、「体力を鍛えること」や「達成観を味わうこと」、あるいは「信仰上の理由から願をかけたい」という目標ならば、始めの一歩から自らの足で極めるのが良いだろう。ある目標が与えられたとき、その目標を目指す理由は何かをもう一度問い直すと、その先が見えてくる。それと同時に、目標到達に用いる手段を選ぶ際の参考にもなる。一つひとつの授業の積み重ねで、当該の授業の目標のみならず単元の目標や教科の目標までを意識することで、授業の方法の見え方も変わってくるかもしれない。

6 授業設計の整合性と「三色もなか」

さて、メーガーが指摘した授業の目標、授業の評価、そして授業の方法の三つが三身一体となっている状態を「整合性」がとれているといい、授業設計で最も重要視される指標となる。つまり、授業のねらいに即した授業の成果の確かめ(評価)がなされているかどうか。学習活動や教師の指導の手立てが授業のねらいに即して準備されているかどうか。そして、学習活動や授業内容と合致した評価が行われているかどうか。整合性という観点にたって、他の二つを見比べながら、評価はこれでよいか、授業の方法はこれでよいかを吟味していく。この整合性を常に意識することで、目標と実践の乖離(かいり)を防ぎ、常に目標の到達度を参考にしながら、次の実践を設計することが可能となるのである。

ローカルな例で申し訳ないが、筆者は整合性を講義で説明するとき、仙台の名産品として名高い「三色もなか」を引合いに出す。ゴマ、粒あん、抹茶など三種類のアンコが一つのもなかにつまって一個で三回おいしい製品だ。目標、評価、授業方略は三色もなかのアンコであり、どれ一つ欠けてもそれは授業設計の欠陥品になってしまうと言う。また、それぞれのアンコのつくり方にはそれぞれに技術的な裏付けがあるので、授業設計の力量をつけたければアンコひとつずつについて勉強する必要があることを指摘する。目標を明確にするための力量、授業の評価を行うための力量、そして授業の作戦を練るための力量をバランスよく習得することを目指させるためである。

三つの力量の中でも、とりわけ授業の評価を行うための力量はこれまで軽視されてきた感がある。この本でも何度か触れたが、自らの授業の成否を自ら評価し目標に照らして授業を改善するための手法として、テストの技術を習得することは、授業デザイナーとしての教師にとって、大変重要な意味をもつ。それにも関わらず、学習目標が達成されたかどうかを正確かつ妥当に判断するためのテストを自作できる、という自信を持っている教師がどれ程いるのだろうか。アンケートや観察項目の作成を含めた評価問題の作成は、多分に技術的な事柄であり、教師の授業経験に裏付けられた創造性を試す領域ではない。授業のデザイナーを目指す教師は、テスト作成に関する技術的な手ほどきを受ける機会をもつように心掛けるべきだと強く思う " 。

さらに、講義ではもう一つ、アンコを用意するタイミングについて言及する。それは、三色のアンコが残らず用意できなければ、三色もなかの製品、即ち授業設計が完了しないということである。システム的な授業設計においては、授業を実施する前にテストをつくっておく。これを評価の設計といい、授業のでき具合を確かめる手だて(これには多くの場合テストが含まれる)を事前に準備することを求める。テストが準備できて初めてメーガーの三つの質問の中の「たどりついたかどうかをどうやって知るか」に答えることになり、三色のアンコがそろったとみなす。授業設計には「目標の設計」「評価の設計」「方法の設計」の三要素があり、メーガーの三つの質問はそれらすべてを事前に用意することの重要性を指摘したことが特に重要である。

7 私にも使える科学的な方法論

「釜石での短い教員体験で痛切に感じたことは、教師は子どもに対する愛情だけでできる仕事ではないということ。ベテランに比べて自分に教わった子どもたちは不幸であった。教師には子どもに確かな学習を成立させる知識と技術が必要。」という自らの教壇経験に基づいて、授業設計の考え方を日本に根付かせた沼野一男の願いは「ペスタロッチのような天才でなくても、私にもせめて大過なく子どもたちを教育できる科学的な教育方法」に出会うことであったという # 。授業を「設計する」というアプローチとそれに必要な技術的基盤の習得に明け暮れたアメリカでの研究生活を今振り返ると、筆者が得たものは、日本で目の当たりにした憧れのベテラン教師の授業に少しでも近づくための、「私にも使えそうな科学的な方法論」であった。

〈注〉
GDMは、Graded Direct Methodの略。詳しくは、次の文献を参照されたい。
・吉沢美保(一九七六)「GDMによる授業の進め方」伊藤健三他(編)『英語指導法ハンドブック1〜導入編〜』大修館書店
・吉沢美保(一九八一)『絵を使った文型練習(第一七版)』大修館書店
$ 鈴木克明(一九八九)「米国における授業設計モデル研究の動向」『日本教育工学雑誌』第一三巻第一号、五頁
!メージャー、R・F著、小野訳(一九七四)『教育目標と最終行動〜行動の変化はどのようにして確認されるか〜』産業行動研究所、五頁
" 筆者の担当する教職専門課目「教育方法」では、授業デザインの基礎をプリントを用いた個別学習教材の自作体験を通して教えている。DTP出版したテキスト(鈴木克明・井口巌『独学を支援する教材設計入門〜教えることの奥深さと糸口を知るために〜』)は、東北学院大学生協泉店で入手できる。また、授業の評価に関する力量をつけるためには、手始めに次の本から読むことを勧めておきたい。
・池田央著(一九九二)『テストの科学〜試験にかかわるすべての人に〜』日本文化科学社
・梶田叡一(一九九二)『教育評価(第二版)』有斐閣双書
# 沼野一男(一九八六)『情報化社会と教師の仕事』国土社教育選書八、一八八頁


■チェックポイントのチェック(解答)■
1 設計という言葉に込められた意図が少しはお分かりいただけたでしょうか。もちろんそれに賛成するか反対かは別として。「折衷主義」に基づき、使えそうな部分だけを採用してくださればそれで幸いです。
2 テストを準備できるということは、子どもたちにどんな力を付けたいのかを明確に記述できることを意味します。さらに、どんな練習をさせればよいのかも明らかになります。テストづくりのノウハウを学ぶ意義は図り知れないものがあると思います。