鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



第11章 成功的教育観を堅持するために


■メッセージ■
放送教育を実践することによって最も恩恵を受けるのは、それを「使いこなそう」とする教師である。放送を利用することで、放送を使わない授業を見る目も変わってくる。放送を悩みながら自分流に使いこなそうとする。そこには放送によって鍛え上げられていく教師の姿が見えてくる。



はじめに
1 力量を高める手ごたえをどう得るか
2 成功的教育観とは何か
3 「教える」の成功的用法と意図的用法
4 結果を出す準備を
5 成功的教育観を維持することへの障害
6 自分は授業で本当に教えているといえるのか
7 授業改善への努力をどう持続するか

■チェックポイント■

1 「教えた」と「教えたつもり」はどこが違うと思いますか?




2 あなたは、授業改善の努力を何をよりどころにして継続していますか?


■メモ■
(本文を読む前に、チェックをしてみての感想などを書き残しておいてください)


はじめに 力量を高める手ごたえをどう得るか

教育の世界は、例えば売上目標を達成するというビジネスの世界などと比較すると、結果が見えにくい世界である。結果が見えにくく、上役の監視もないところで自らを律して努力を続けることはとても困難なことだと思う。そんな中、自分自身に納得のいく形で努力を結実させ、教師としての力量を高めていくために、これまで紹介してきたさまざまな授業設計論の枠組みが大きな武器となると考える。それは、一つひとつの成功には理由づけと意義づけを与え、失敗には改善への糸口を提供すると思うからである。

この章では、筆者の立場(授業設計論)から放送教育について見直し、研鑽を深めたいと考えている読者のために、今後の努力を支える心のより所を紹介したい。それは、少なくとも筆者の教育方法に関しての研鑽を支えている「成功的教育観」である。

1 成功的教育観とは何か

成功的教育観。この言葉に初めて触れたのは、沼野一男著『授業の設計入門〜ソフトウエアの教授工学〜』のはしがきを読んだときだった 。それ以来、忘れられない言葉である。
 
 授業ではいろいろ工夫をして、子どもたちに何かを学んでもらおうとして、教師は教えている。

沼野のはしがきを読んで、それまでは何の抵抗もなく読んでいたこのような文が、「教えている」という言葉をとても気軽に使っていることに気づいた。確かに、そこでは教師が教えようとしていることには違いない。しかし、現実に教えているかどうかはわからない。「教えようとしている」(教師が働きかけている)ということと「教えている」(現実に働きかけが成功した=子どもに学びが成立した)ということとは同じではない。そう考えるのが成功的教育観である。成功的教育観こそ授業改善の努力を支えるより所だと確信したので、先述のような文章に出会うと、次のように言い換えて読むようになった。

 授業ではいろいろな工夫をして、子どもたちに何かを学んでもらおうとして、教師は教えようとしている。しかし、その試みが成功して「教えている」といえる状態かどうかは子どもたちがその授業から何をどの程度学んでいるかを明らかにするまでは判断できない。

2 「教える」の成功的用法と意図的用法

沼野によれば、成功的教育観とは、「教える」という言葉を教えようという教師の意図が成功したかどうかについて「現実の効果」の面で用いようとする考え方である。教師が「教えた(成功的用法)」というためには、子どもが授業で意図した成果を収めたという証拠が必要とされる。「教えた(成功的用法)」は「学ばせることができた」と同義である。

これに対して、教師側に何かを教えようとする意図を持った働きかけがあった場合、それをもって「教えている」あるいは「教えた」とする考え方を意図的教育観と呼ぶ。意図的教育観では「教えようとしている」と「教えている」は同じことである。教師が「教えた(意図的用法)」結果として、子どもが何かを学ぶ場合もあれば学ばない場合もある。冒頭の文はこの意図的教育観に基づけば立派に成り立つものなので、「教える」という言葉の使い方に教育に対する見方が反映しているという確認を込めて、次のように注釈をつけて読むようになった。

 授業ではいろいろな工夫をして、子どもたちに何かを学んでもらおうとして、教師は教えている(意図的用法)。

3 結果を出す準備を

成功的教育観に立脚して、「教えようとした」と「教えた」を区別して用いることを意識すると、教えようとして努力した結果を求めるようになる。一生懸命努力して授業で子どもたちに教えている(意図的用法)つもりだけでは満足せずに、本当に教えている(成功的用法)と言えるかどうかを立証しようとする。この姿勢を持つことが、結果の見えにくい教育の世界において、授業の成果を少しでも明らかなものにする鍵である。授業の成果を調べることで、自分の授業をよりよいものに改善していく指標が得られる。

努力を続けるためには、「これでいい」と思える確かな手ごたえが必要だ。それは完璧なものができたからこれでいい、というのではなく、着実に一歩ずつ進んでいるという手ごたえだ。確かな手ごたえは授業を準備する苦労の多さにも授業のスムーズさにも求められない。ベテラン教師や研究者からの褒め言葉にも求めてはいけない。それは、子どもたちがどう変わったか、何を学んだのかという一点に最も確実に求められる。努力を支える原動力になる。

成功的教育観に立って教えたつもりと教えたを区別したとき、結果を出す準備をしてから授業を行え、とする授業設計論の立場は、「教えた」と胸をはって言うための必要条件に思えた。評価は授業改善のためのものという主張はもっともだと思ったし、評価の方法は授業を実施する前に具体化しておけという点も納得できた。そうすれば、少なくとも「これは教えられなかった」ということを明らかにして、次に進むべき指標を得ることができる。つまり、評価は自分の教えようとする努力を継続させ、向上心を支えるための道具だと確信できた。学校教育の目標からさかのぼって現在の授業のあり方を意識的にとらえ直せ、とする教育工学の考え方は、筆者を勇気づけるものであった。

教えようと努力しているからそれでいいと考えられるならば悩みはない。結果はともかく、自分は精一杯教えた(意図的用法)と思えばすむからである。しかし、一度「これでいいのだろうか」との思いがわき上がってきたとき、「努力しているからそれでいい」という答えでは、自分を納得させられるとは思えない。「教えてようとしている」と「教えている」とは同じではない。「教えたつもり」は「教えた」とは、やはり違う。

4 成功的教育観を維持することへの障害

我々は日常的に、自分の授業をどう改善したらよいのかを子どもたちの学びの証拠をもって可能な限り客観的に吟味検討しているだろうか。「教えた」と「教えたつもり」が同じではないことは承知していながら「教えたつもり」のまま放置しているとしたら、自分の信念が成功的教育観にあると主張することはできない。

放送教育の公開授業やふだんの授業実践において、成功的教育観に基づいて「現実の成果」を吟味する準備が十分になされてこなかったのは、いったいどうしてなのだろうか。子どもたちの教育に情熱を持ちそれを生涯の仕事として選んだ先生方の間で、どうして意図的教育観で「教える」という行為をとらえる方が少なくないのかという疑問がわいてきた。胸をはって堂々と「私は一生懸命努力して教えている(意図的用法)のだから、それで役目は十分に果たしている。」と公言する教師は少ないだろう。しかし、我々は日常的に、自分の授業をどう改善したらよいのかを可能な限りに客観的な子どもたちの学びの証拠をもって吟味検討しているだろうか。

さまざまな理由が交錯していると考えられるが、少なくとも、客観的で明確な成果を確かめるための技術的な障害、成果を確かめることへの態度の障害、そして制度上の障害があるように思う。

⑴授業の成果を客観的で明確に示すことは難しい。(技術的な障害)

まず考えられるのは、授業の成果を客観的で明確な形で示したいけれどもできない、どうやればよいのかがわからない、という技術的な障害である。教師としての力量をつけるために不可欠な授業の評価に関する技術的な訓練が教員養成課程で不足していることは本書の中でも既に指摘した。目標の明確化とその到達状況を把握する方法(テスト)の準備についての知見は教育評価の研究として蓄積されており、参考になることが多くある。

一方で、学習の成果をいかに把握するかということ自体が、教育研究の永遠のテーマでもある。とくに複雑で高度な学習の成果ほど、その評価方法が十分に解明されているとは言えない部分も多い。したがって、授業方法の改善をテーマにした研究には、不可避的に教育評価の研究課題を内包することになる。教育研究にたずさわる者全員が教育評価の研究者でもあると言ってよい。授業実践とその研究に携わる我々すべてが意識的に評価方法について検討し、積極的に新しい手法を模索していくことが肝要である。

授業の成果は長期間かけて子どもの中に熟成していくものであって、結果は授業直後に現われるものではない。いかに客観的なテストを作って実施したとしても、それで測れることは授業の成果の一部であって、ささいな事項だけである、という見方がある。ご説ごもっとも。確かに、ささいな成果の方が確実に評価でき、より意義があるとされている目標の達成を見極めるのはより難しい。しかし、それでは研究は先に進まない。授業を振り返って成果を確かめ、改めるべきことは改め、補足すべきことは補足する。そのためには、子どもが大人になるまで授業の評価を待つわけにはいかない。

授業の成果をテストで確かめる。アンケートで子どもの気持ちを確かめる。学習技能が育っているかどうかを観察する。そんなささいなことを確かめたくらいで、授業の成果がすべて明らかになるとは思わない。当然である。しかし、それすらも確かめないでいいのだろうか。ささいなことの積み重ねを経ないで、数学的な思考力であるとか、科学的な態度であるとか、市民性の育成などといった大目標にいきなり到達できるとでも言うのだろうか。

日々の授業は長期的な展望に立って行われるものである。しかし、それが日々の積み重ねの成果を確かめないでいい理由にはならない。崇高な教育目標と日々の授業実践の乖離(かいり)を防ぐためにも、長期的な展望と日々の授業の成果を関連づける努力が求められる。それは、今日これを達成することがどの目標達成への一歩前進になるのかを明らかにし、小さな一歩に意義を与えることにもつながる。

⑵見る人が見れば一目でわかる。(経験至上主義)

公開授業のあとで行われる授業検討会は、今行われた授業をめぐってのさまざまな意見に触れる機会として興味深い。最初のうちは「さすが先生方は経験的に子どもたちにどんな学びが実現したかを授業を見ただけで見抜くのか」と感心したものだが、そのうち「どうせなら子どもたちに確かめてみたいものだ」と思うようになった。おそらくその道のベテラン教師には、客観的な道具だてなど用意しなくても、どの程度教えたか(成功的用法)を把握することが可能なのだろう。しかし、「経験を積めば授業を見る目が養われていく」という類の経験至上主義には、筆者のような門外漢はついていけない。経験の少ない若い先生にも、通用する議論ではないだろう。客観的な評価方法を採用することの意義を軽視する態度は、教えられたかどうかの判断を個人的な次元にとどめ、成功的教育観の障害となる。

授業を一目見ただけでその成果が把握できる方は、それでもよい。筆者としては、なぜその方が自信をもって判断できるのか、その根拠をぜひ明らかにしてみたいと思う。ベテラン教師の判断基準を意識的に取り出すことは、評価方法の向上に役立つと思うからである。現在のところ、筆者には子どもの目を見ただけでは、その子がどの程度理解し、どんな意見を持ち、どんな技能を身につけたのかを確信をもって答えることはできない。したがって、何らかの手段で子どもたちから「証拠物件」を引き出すまでは授業の成否を自信をもって判断できない。それゆえに、不完全だとはわかっていながらも、客観的な道具だてを頼りにしている。証拠物件があるからこそ、ある程度までは自信をもって、「今日の授業では自分の考えの七割位が実現できた」などと言うことができる。ここでの七割とは、授業がどのように進んだかという過程のことではなく、七割の子どもたちに学べせることができた、あるいは子どもたち全員が合格ラインの七割まで進んだという成果のことであることはいうまでもない。

⑶身につけるのは子どもの責任である。(意図的教育観)

教師の仕事はていねいに教える(意図的用法)ことと子どもが勉強するように「励ます」ことである。実際に努力して身につけるのは子ども(あるいは親)の責任だから、教師はそれを確かめる必要はない。テストは、学習指導要録に記録し、通知票を出すために行う第二義的な作業である。教師はテストすることよりもわかりやすい授業を提供することに専念するべきだ…。

学校とは先生から知識を授かる所、教えていただく所という庶民感覚がある。それが、「先生は一生懸命教えてくださる(意図的用法)のだから、あなたも頑張りなさい。」という親の態度を支えている。教師の熱意こそが尊敬の対象、あとは子ども次第という見方が育まれても何の不思議もない。教師の教え方に文句を付けるなどとは不遜の極み、しっかり勉強しないお前が悪いと子を叱る親。そういう学校の中に育ち、尊敬されるべき教師になったのだから、子どもの責任だと考えるのも無理はないのかもしれない。

いや、そうではない。身に付けるのはこどもの責任(あるいは子どもの資質の問題)とする背景には、「教師はあらゆる手を尽くして努力している」という大前提がある。教師という職業は聖職であり、無条件のたゆまぬ努力が求められるということなのかもしれない。確かに、成功的教育観に基づいて授業改善に努力を重ねても、できない子はできないし、やらない子はやらない。同じ授業でもできる子とできない子の差が実際に生じる。教師はこどもたちの心をとらえ、やる気にさせることを意図して精一杯の努力を傾ける。あとは、子どもたちがその教師の努力に応えてくれるかどうかにかかっているが、期待どおりになってもならなくても教師は努力を続ける存在であり、いつの日かこの努力が花開くことを信じて疑わないのである。

このように考えて使命感に燃える先生方に対しては、「すばらしい」としかいいようがない。筆者は締め切りがないと原稿に着手しない性分だから、今自分が傾けた努力がどの程度実を結んだのかを性急に知りたがり過ぎるのかもしれない。ある程度の手応えが得られないと、次に頑張ろうという気持ちが起こせなくなる。無条件で努力をし続けるなどということができる人がとてもうらやましい。大学では、それでも教育方法を教えている教師の講義かと言われるのを恐れ、学生たちにこうすればもう少しマシになるよとアイディアをもらい、今日の講義はうまくいったではないかと励まされ、ためになったとお世辞を言われ、ようやく持ちこたえている始末である。

筆者のように手応えがないとすぐに挫折してしまう人にとっては、成功的教育観は心の支えになる。具体的な結果を出すことによって一応の満足感が得られるからである。一方で、無条件の努力を使命感と確信している人にとっては、努力の方向性を示してくれる。授業で扱う内容や授業の方法が一つしか思い付かないときには、成果の証拠集めは必要ないのかもしれない。しかし、教え方について二つ以上の選択肢を考えついてしまったときには、その中で自分が選ぶべきものはどれかということを教えてくれるのは「現実の効果」以外にはないからである。

⑷カリキュラムが過密すぎる。(制度的物理的条件)

大学の先生は気楽でいい。なぜならば、何をどこまで教えようとするのかを自分で決めることが出来るから。われわれは、学習指導要領に定められた内容を、無理を承知で教えなければならない。日本のカリキュラムは、エリートがやっとの思いでマスターできるほど高度な、過密カリキュラムだと聞く。成功的教育観に立脚したからといっても、それですべてうまくいくわけではない。むしろ、できもしないことを目指して苦労するだけだ。カリキュラムが見直されないかぎり、教科書を終わらせるだけで手一杯で、一人ひとりの子どもの学習成果を確かめている余裕はない…。こんな声がどこからともなく聞こえてくる。最初から「詰め込み」を前提にしているカリキュラムだと。

たしかに、成功的教育観に立って教えているかどうかを厳しくチェックしたとしても、それでうまく教えられるようになるとは限らない。逆に、意図的教育観に立っているからといって、その人はうまく教えられない(成功的用法)とも限らない。最初からできる人は、うまくできているかどうかを確かめても確かめなくても、うまくいく。できていない人にとっては、むしろ、成功的教育観に立つことで、自分がどの程度「うまく教えていないか」(成功的用法)がわかってしまう危険が生じる。カリキュラムが過密すぎて、それを全部学ぶのはほとんどの人にとって無理な注文だとすれば、わざわざ「うまくできていない」ことを明らかにするために証拠を集めなくてもいいのではないか。そう考えるのも無理もないのだろうか。

成功的教育観に立って証拠を集め始めると、最も辛いのは自分の実力のなさが如実に現れることだ。逆に、一番嬉しいのは手ごたえが得られることだ。カリキュラムが過密すぎてすべてを教えられない(成功的用法)とすれば、最低限これだけはと思うことがらを明らかにして、それだけは全員に身に付いたかどうかを確かめればよい。エッセンスは何で、枝葉末節は何か。それを見極めて確実に教えようとする態度は、成功的教育観から生まれる。最初は失敗の連続であろう。今まで教えたつもりで実はうまく教えられていなかった(成功的用法)ことにあぜんとするかもしれない。しかし、自分の実力のなさがはっきりすることは、同時に何を目指して努力したらよいかが明確になることを意味している。このことが筆者の努力を支えている。

⑸進級テストがない。(結果を出す必要がない)

日本の義務教育では、進級の条件は「出席日数」を満たすことであり、最低限必要な基礎基本を身に付けることではない。どんなに成績が悪くても、次の学年に進むことができる。クラスメイトとの競争には負けるかもしれないし、「自分はあまりできがよくないな」ということを自覚するかもしれないが、卒業できないという事態にはならない。学校では自分がどの程度できるかをクラスメイトとの比較で把握することが大切であり、また卒業資格を得ることが大切であり、将来役に立つ何かを学ぶことは第一義の目的ではないと思わせている面があるのかもしれない。

一方、とても低いレベルながらも最低限の進級テストがあって、それにパスできないと進級できないアメリカでは、基礎基本をマスターしなければ先に進めない。同じ学年でもう一年過ごすことになる。逆に、例えば算数のテストの成績がよければ、一学年飛び越して、さらに上級のクラスに配属されることになる。何を平等と見なすかについての考え方の相違であろうか、今のレベルに合った授業を受けさせることがその子のためと考えているようである。

どちらがよいと感じるかは、人それぞれであろう。しかしながら、進級テストがあった方が、学んだ結果を重視する、つまり成功的教育観を維持できる環境になるような気がする。教え方が下手でも教師は職にとどまることができるし、学び方が下手でも、何の努力もしないでも子どもたちは進級できる。成功的教育観を維持することへの障害として、学習の成果を示すことが制度的に要求されていないことは少なからぬ影響を持っているのではないか。だからこそ、人に尻を叩かれなくても自ら結果を出す自主的な態度を持つかどうかで、雲泥の差が生じてしまうのだ。

5 自分は授業で本当に教えていると言えるのか

教師になりたての頃は、とにかく授業を「無事に」終わらせることに精一杯の状態だ。いろいろと工夫をして授業を準備し、それを子どもにぶつけていく。そんな経験を積む中でなんとか授業ができる(と思える)ようになり、子どもを集中させたり笑わせたり、ときには驚かせたり叱ったりするすべも身につく。いわゆるクラスが動かせるようになる。子どもの反応もある程度予想がつくようになり、放送番組を見せるタイミングやその後の処置も組み立てられる。新任の頃と比べたら、自分は随分成長したものだ実感できるようになる。

確かに、このような段階を経ることによって、教師として授業を営む力量が高まったことは間違いない。授業が形になってきた。しかし、授業が形になってきたからといって、「教えられるようになってきた」といえるのだろうか。自分の授業では教えているといっていいのだろうか。例えば、授業が予定どおりに進み、子どもたちから思った以上の反応があり、自分ではうまくいったという手ごたえを得たとしても、子どもたち一人ひとりの頭や心やからだに、何が残ったのだろうか。自分の授業は本当にあれでよかったのか。これで満足して本当によいのだろうか。成功的教育観に基づき、尺度を定めて、授業の成否を「現実の成果」に求めることが、自分自身を納得させる近道であると思う。何を尺度として授業の成否を自分自身に納得させればよいのか、何を目指して努力し自分自身に力量をつけていけばよいのか。それがわかったとき、進むべき方向が定かになる。

6 結果を出すためのチェックリスト

表XI-1に「結果の出せる放送教育研究準備チェックリスト」を紹介する。これは、先の第四四回放送教育研究会全国大会に向けて、宮城県の先生方に提案したものである。チェックの観点は六つある(AからF)。観点別に空白の項目が一つずつあるのは、それぞれの観点で、もっと適切なチェック方法がないかどうかをリストを使う人が考えて追加してほしいと思ったからである。

チェックはまず、だれでも考える指導過程の検討(A)からスタートし、授業の目標(B)の確認と、授業を受ける子どもたちの実態把握(C)へと進む。さらに、評価方法の設計(D)、授業者にとっての研究の意義(E)、発表される研究としての意義(F)をチェックする。

これらの観点から研究計画を再検討し、授業を実践したからといって、理想的な授業になるという保証はどこにもない。しかし、少なくとも、何をやりたかったのか、そして結果はどうだったのか、何がよくて何が悪かったのかを明らかにすることはできる。詳細な研究計画をたてて授業を実施したにもかかわらず、報告書を書く段になって十分な「物的証拠」があげられずに苦労することはなくなるだろう。どんな授業だったのかを「目と目でわかりあえる仲間」以外の教師にも、伝えることができるようになるだろう。何よりも、教えたつもりと教えたとを区別して、成功的教育観に立脚した研究にすることができる意義は計り知れない。


表XI-1.結果の出せる放送教育研究準備チェックリスト   
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A□どんな授業/保育をするのか?
 1□指導過程が詳しく記述されているか?
 2□その方法を選んだ理由が何であるかが明らかか?
 3□放送教育という手段のどんな特徴を生かそうとしているのか?
 4□
B□何を教えるためにどんな授業/保育をするのか?
 1□具体的には何を教えようとしているのか?(門外漢にもわかるように)
 2□教えようとしていることはどんな性質をもつ学習課題か?
 3□学習課題の特徴が方法の選択にどんな影響を与えるのか?
 4□授業の目標が単元の目標や教科の目標などへどうつながっているのか?
 5□
C□どんな子どもに何を教えるためにどんな授業/保育をするのか?
 1□子どもの特徴が方法の選択にどんな影響を与えるのか?
 2□授業/保育開始時点での子どもの特徴をどうやってとらえるのか?
 3□
D□どんな子どもに何を教えるためにどんな授業/保育をしたら子どもは
  何をどの程度学ぶのか?
 1□授業/保育進行中の子どもの様子をどうやってとらえるのか?
 2□授業/保育終了時点での子どもの変化(=授業の成果)をどうやって
   とらえるのか?
 3□
E□どんな子どもに何を教えるためにどんな授業/保育をしたら子どもは何を
  どの程度学んで、その結果自分は何を学ぶのか?
 1□授業/保育は計画どおりに実施できたかどうかを確認する方法は?
 2□授業/保育の成果の予想はたてたのか?
 3□予想しなかった成果(プラス面マイナス面とも)を確認する手段は?
 4□授業/保育の方法で、検討したが採用しなかったものは何か?
 5□これからの授業/保育(次の単元、来年の実践)に何を生かすのか?
 6□
F□この研究成果は共有できるものになるのか?
 1□授業/保育の計画を詳しく書いた資料が用意されているか?
 2□授業/保育に用いた教材などは再利用できるか?
 3□授業/保育の成果を確かめる手段は再利用できるか?
 4□この研究成果を内容/領域を越えて応用するヒントが示せるのか?
 5□放送教育の研究に新しい1ページを刻めるのか?
 6□
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7 授業改善への努力をどう持続するか

そもそも我々は、なぜ、放送番組を使おうとするのだろうか。本書では、せっかく流されている放送番組を使わないのはもったいないという点から始めて、放送番組をライバルとみなして自分に力をつけていく、放送をどう使っていくのが自分の存在を生かす道なのかを模索する、あるいは放送番組を助っ人として使いこなす力量をつけるという立場から、筆者の授業設計論との出会いを振り返り、「これは使える」「これは知って損はない」と思えるアイディアをご紹介してきた。

「教育に放送を生かす」という放送教育のテーマを筆者なりに言いかえると、「教育に放送を使うことで人間教師を生かす」となる。放送教育は番組利用のためのものでもなければ、子どもたちだけのためのものでもない。放送教育を実践することによって最も恩恵を受けるのは、それを「使いこなそう」とする教師である。放送を利用することで、放送を使うことを選択した教師自身に力量がつき、放送を使わない授業を見る目も変わってくる。放送利用を通じて、現在の学校教育の矛盾が見えてくる。これまでの放送教育の伝統を踏襲しようとするだけでなく、それを意識的に検討し、放送を悩みながら自分流に使いこなそうとする。そこには放送によって鍛え上げられていく教師が見えてくる。授業デザイナーとしての力量が高まっていく。

教育に放送をどう生かすかという問いの出発点は〈子ども〉であり、その問いの到達点も〈子ども〉である。放送が教育に生かされたかどうかは、放送を使った授業を受けることを通して、子どもたちがどう変わったのかを確かめることによって判断されるからである。子どもの現在をとらえることから出発し、放送を使った授業のあり方を考え、その結果を子どもの変容に見いだしていく。この手続きを欠いて放送教育を語っても意味がない。

自分の授業を少しでもよくしていこうとする気持ちは、教師である以上、だれもがもっているものだ。どんな授業にすれば今より〈よく〉なったと言えるのかということ、つまり理想の授業像については、まだそれが見えてこない、暗中模索の状態であるかもしれない。しかし、それにもかかわらず、なんとかして授業をよい方向に変えていきたいという気持ちはある。どの方向に進むのがよいのかについては自信はもてないが、今のままでよいと思っているわけではない。そんな若い先生方の手がかりとして、本書で紹介したことの一つでもお役に立てて頂ければ筆者としてそれ以上の喜びはない。成功的教育観を堅持するために。

〈注〉
沼野一男(一九七六)『授業の設計入門〜ソフトウエアの教授工学〜』国土社、一〜七頁


■チェックポイントのチェック(解答)■

1 成功的教育観に基づいて「教えた」というためには、現実の効果についての証拠物件が必要です。それが得られるまでは、「教えたつもり」にすぎません。

2 具体的な結果を出そうとすることは、手間もかかりますし勇気も必要です。成果が上がっていない場合は、だめだったことが明らかになります。しかし、結果を明らかにすることは、一番の心の支えにもなります。自分の可能性を信じて、失敗から学ぶ勇気を持つことです。お互いに、精進しましょう。