鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



あとがき ありがとう宮城大会


1 成功裏に幕を閉じたことに感謝

第四四回放送教育研究会全国大会(宮城大会)は、平成五年一〇月二八日(金)、全国から延べ六三〇〇余名の先生方の参加をいただき、成功裏に幕をおろした。全国からお集まりいただき熱心に討議に参加くださった先生方に、本大会に携わった者の一人として、厚く感謝申し上げたい。短い日程で慌ただしい大会ではあったが、「宮城に来てよかった」と思える何かを必ずや持ち帰られたことと思う。

本大会を支えた多くの方々、ご苦労さまでした。終わってしまえばたった一日の出来事ではあった。しかし、それを準備するまでの苦労は並々ならぬものがあった。本大会に向けて制作されたハイビジョン番組いのち輝け地球「川は生きている」に登場したホタルの一生が思い出される。わずか数日美しく輝くために、地中で長いときを過ごす。見ていただけた部分は極くわずかであったが、長く懸命な準備がそれを支えていた。

公開保育・授業に協力した子どもたち、いつもと違う教室に少し緊張ぎみだった。保育・授業を公開した先生の方が、もっと緊張したかもしれない。会場園・校で、あるいは全体会場で、本大会の運営に携わった先生方、綿密に計画を立てることのありがたさと柔軟さを保つことの難しさを肌で感じただろう。幾度となく会合を重ねて万全を期した事務局の方々、世の中の複雑さと景気の悪さが身にしみたことだろう。そして指導助言をいただいた先生方、放送教育もかわってきたなと思われただろう。

多くの方々のいろいろな形での献身的な努力によって、宮城大会は幕を閉じた。大会に関係した多くの者の胸には、「よくやれたものだ」という安堵感とともに、与えられた責務をとにかく果たしたことに対して、「よくやった」という充足感があふれている。全国の先生方に懸命な取り組みを見ていただくことで宮城県からの情報発信ができたこと。放送利用という共通項をとおして校種を越えたつながりが確認できたこと。本大会が宮城県の放送教育関係者に成就感と連帯感とを残してくれたことは、確かだ。

2 一日開催の宮城大会

四四回を数える本大会を宮城県に迎えたのは三回目だった。初めて開催した昭和三六年の第一二回大会、八年後の昭和四四年に引き続いて開催した第二○回大会以来の、実に二四年ぶりの大会開催であった。幸いにも、大会事務局の主だった先生方は二四年前の大会当時からの放送教育実践のベテランであり、歴史の重みを感じさせた。指導室にも放送教育の変遷をよくご存じで、長く宮城県の指導的立場でご活躍の先生方をお迎えすることができた。放送教育の歴史が本大会を支えていた。

放送教育研究会の長い歴史の中で、本大会は大会のコンパクト化という方針を受け、初めて大会の全日程を一日で収めた。いわゆる「一日開催」の初年度にあたった。その結果、校種別全体会の廃止、全体会での記念講演やアトラクションの廃止など、前年までの大会に比べてより厳選したプログラムとせざるを得なかった。午前中を各公開授業校ごとに、午後は全体会場でセミナーと総合全体会に、という過密なスケジュールなってしまった。点在する会場校から午後の全体会場への移動時間もあり、午前中の公開授業校ごとの研究交流も限られた時間しか確保できなかった。

平成六年度の第四五回大会(愛媛大会)では、一日開催を初日の午後と二日目の午前中に分割して行った。平成七年度の第四六回大会(愛知大会)でも、初日の午後三時から二日目の午後三時までの二四時間の枠内に収めて、一日開催とするようである。一日開催で成果を最大にするための工夫が、何年かかけて試行錯誤されることになるのだろう。開催方法という点から、宮城大会は放送教育が一つの転換期にあることを語っていた。

3 進化するハイビジョン利用術

一九八八年十二月に世界初のハイビジョン授業が行われ、翌年の第四○回大会(広島大会)において初めてハイビジョンが本大会として正面から取り上げられてから五年が経過した。第四一回大会(東京大会)では、歴史に残るハイビジョン環境番組「人と森林」を中心として、電子印刷によるハイビジョン教科書、さらにレーザーディスクとコンピュータを連動させた映像データベースとマルチメディア学習システムへと展開させた 。第四三回大会(和歌山大会)では、初のハイビジョン生放送による公開授業が行われ、仙台市の小学校でも同じ番組の生放送を受信しての授業研究を行った。

本大会に向けても四本のハイビジョン番組が制作され、ハイビジョン生放送で公開保育・授業に供された。札幌、東京、豊橋、松山の各地でも、同時に生放送の電波を受信しての授業研究が行われた。また、午後の総合全体会でも「ハイビジョンがひらく明日の教育」と題したシンポジウムが行われ、宮城から全国へハイビジョン生中継された ! 。ハイビジョンが始まってからの伝統を受け継ぎ、本大会でも次世代テレビの可能性を模索した訳であるが、これまでの大会とは趣が異なる点がいくつかあった。

4 ハイビジョンを「普通のテレビ」に

まず、ハイビジョンをできるだけ「普通のテレビ」として扱おうと考えたことである。特別なものであるという意識を持たせずに視聴させても、ハイビジョンの教育特性が顕著なものならば、自ずと子どもたちの反応にそれがあらわれるはずであるとの考えに立ってのことである。ハイビジョンに関する技術的な進展もこの試みを可能なものにしていた。具体的な手だてとしては、公開保育・授業以前にハイビジョン番組(公開時とは異なるプログラム)を視聴させると共に、三三インチモニターを使った。一〇〇インチ以上の大画面を暗幕を施した部屋で視聴するこれまでの「一六ミリ映画型」の視聴環境から、明るい教室での教室サイズのモニターを用いた視聴環境へと変化させた。

ハイビジョンを「普通のテレビ」にできるだけ近づけようとした実践の結果はまだ詳細に吟味されてはいない。しかし、幼稚園では、十五分間の番組に子どもたちが集中して見ていた様子や、特に臨場感あふれる音に反応していたこと、あるいは番組終了直後にはほっとしてリラックスした態度が見られたことなどが報告されている。また、小学校の実践(社会科)では、視聴後の子どもたちの課題追求に「捨てきれないこだわり」がより強く残ったことが報告され、映像の持つインパクトが子どもたち各自の個性的な視点と相乗効果を生んだ可能性が示唆された " 。さらに、幼稚園では、初回のハイビジョン番組視聴が長く子どもたちの心に残っていて数ヵ月後の創作活動に影響を及ぼしたという報告があり、視聴体験の効果が短期間ではとらえきれない点が改めて浮き彫りにされた。

これらの傾向が、ハイビジョンそのものの教育特性なのか、ハイビジョンを用いて制作された番組の構成によるものなのか、公開保育・授業という特異な視聴環境のなせる技なのか、あるいはそれらの相互作用によるものなのか、今後の吟味が待たれるところであろう。子どもの心情に訴える効果、広がりのある課題追求を刺激する効果、あるいは放送視聴によって刺激された子どもたちの発展的な学習活動をいかに組織するかといった、放送教育の古くて新しい課題は、ハイビジョンにおいても等しく重要であることだけは確かである。

5 ハイビジョンをマルチメディアの窓に

宮城大会では、ハイビジョンを「マルチメディアの窓」としてとらえる実験的な試みを行った。これが第二の特徴である。東京大会でのマルチメディアへの広がりを踏襲し、仙台市立福室小学校六年二組では一年間の追求課題として環境問題を取り上げ、近隣の「七北田川」を実地調査した結果を映像やイラスト、記事などの形で、班ごとにコンピュータに統合化する実践を積み重ねていた。公開授業では、半年間の活動をまとめる中間発表会を行い、さらにそれを午後の全体会場に集まった先生方や生放送を介して全国に披露するために、シンポジウムではハイビジョン二元生中継を行った。その際、全体会場と福室小学校をコンピュータ回線で結び、子どもたちが作り上げてきた調査結果を全体会場から調べたり、パネラー代表のビジュアリスト手塚眞氏と子どもの代表が共同で一枚の絵を仕上げるなどを試みた。ハイビジョンをマルチメディアの窓としての、世界初の双方向の情報のやり取りを行ったわけである。子どもの手際の良さを見せつけられた手塚氏の「笑っていますけど、これが教師と子どもの明日の姿かもしれませんよ」との名言が忘れられない。

コンピュータがこれからの教育に大きな影響を与えていくだろうと言われて久しい。また、教育の実践へ着実に根付いてきている。本大会でも、はやくからコンピュータと放送との融合を取り上げてきた実績がある。一方で、ビデオ機器の簡便化が進み、放送を通していわゆる素人の映像が流される機会も増えてきた。プロの優れた映像によって刺激を受けるだけでなく、子どもたちにも映像の創り手となり、自分たちの集めた情報を発信していく番が回ってきた。そんな時代に欠かせないのが、双方向の情報のやり取りを媒介するための、コンピュータと相性がよい次世代テレビである。「ハイビジョンは子どもたちの武器になる」という手塚眞氏の言葉が耳から離れない。「(ハイビジョン視聴の)この興奮を、この感激を、どのように教育活動の中で生かし、効果を上げ、定着させるか、その理論的研究はこれからである # 。」とした和歌山大会で残された課題への一つの方向づけであった。

6 研究を振り返って

宮城大会での研究主題は、「自ら学ぶ意欲と主体的に生きる力を培う放送教育をすすめよう」であった。学習指導要領の改正、新学力観、あるいは全放連第二次研究計画における研究主題を意識した主題設定であり、重要な課題を的確に含んだものであった。しかし、その反面、現在の教育課題に取り組む保育・授業のすべての問題点を網羅するような主題であり、この大会で目指すところは何であるかを絞り込んで明示する役割は果たせなかったと思う。したがって、大会を終えた今、研究主題についての答えがどこまで導き出せたのかと問われれば、正直なところ、成果を総括して即答できる状態ではない。敢て総括するとすれば、それぞれの公開園・校においてのこれまでの研究の経過を受け、子どもたちの発達段階を踏まえた上で、研究主題につながる研究課題を自ら主体的に選択し、それに向けての研究をすすめ、それぞれに一定の成果があった、ということにでもなろうか。

これまでの大会を振り返ると、大会のキーワードを明確に示し、校種を越えてそれを一丸となって目指していたことが多かった。それがそもそも研究主題のもつ役割であろうし、そのような指導力を発揮できなかった責任はひとえに筆者の非力によるものであった。しかし、本大会では「どんな教育からも子どもたちはたくましく学んでいく」がごとく、指導力のない指導室長(筆者)をもった先生方は自ら研究主題について考え、主体的にそれを捉え、たくましく授業実践にむすびつけていった。自ら学ぶ意欲と主体的に生きる力を子どもに培うのに相応しい教師集団によって、自ら主体的に考え出された方向性を持つ研究が展開された。

結果として、全体としての方向性は絞り込めなかったものの、各公開園・校におけるこれまでの研究経過を反映した、多様な取り組みがなされた。幼稚園ではイメージと表現活動、自然との関わり、遊びの創造といった領域での研究課題を公開園ごとに生み、小学校では理科(生活科)や社会科(生活科)といった教科を絞り込んだ放送利用を全校で取り組んだり、校舎の特徴を生かした自己教育力の育成という観点からの研究への位置づけがなされていった。それは、放送よりもむしろ教育に力点をおいた放送教育の研究になった。個性を重視する時代に相応しい大会であった、といえるのではないだろうか。

7 おわりに〜多くの「未測量」を残して

宮城大会へ向けて制作されたハイビジョン番組の一つに、伊能忠孝を扱った力作があった。小学校社会科番組歴史みつけた「鳥のように虫のように〜歩いてつくった日本地図〜」である。公開授業校の一つ仙台市立松陵小学校六年三組でこの番組を視聴された大阪大学(当時)の水越敏行氏は、五十歳を過ぎて測量に乗りだした忠孝の熱意とともに、測定できない箇所を「未測量」として記載した科学への忠実な態度が表現されていることを見逃してはならないと指摘されていた。

本当に多くの方々が携わった本大会を振り返るという作業は、個人のなせる技ではなく、この「まとめ」には多くの未測量部分が残っていることを痛感する。校種別のまとめで未測量部分を補っていただければ幸いである。

本大会の指導室長という大役を仰せつかってからの準備期間はあっという間に過ぎ去った、と今振り返って思う。全体研修会での講演や「放送教育」の連載を始めとして、これまで数多くの方々から受けた学恩を披瀝する機会も与えていただいた。また、指導するという立場にありながら、筆者自身とても多くのことを学ばせていただいた。本大会に携わった関係各位の得たものが、筆者のそれに匹敵した、あるいはそれを上回ったことを願う気持ちで一杯である。ありがとう、宮城大会!

〈注〉
日比美彦「教育ツール、ハイビジョンのマルチ展開〜全体研究会の見どころ〜」『放送教育』一九九○年十一月号、二〇〜二一頁
!ハイビジョン試験放送生中継番組として放映、一九九三年一○月二九日「ハイビジョンがひらく明日の教育(第四四回放送教育研究会全国大会(宮城大会)総合全体会)」。シンポジウムの要約は、水越敏行・手塚眞・黒田昌孝・青木茂・鈴木克明(一九九四)「シンポジウムハイビジョンがひらく明日の教育(特集第四四回放送教育研究会全国大会(宮城大会)レポート)」『放送教育』一九九四年一月号、三○〜三七頁を参照。
" 横田政美・佐野裕次・菅原弘一・大川英明・鈴木克明(一九九四)「シンポジウム ハイビジョンを授業にどう生かすことができるか(平成六年度全国放送教育特別研究協議会リポート)」『放送教育』一九九四年一○月号、一八〜二六頁
# 久實「輝かしい発展と飛躍〜放送教育研究発祥の地での成果〜(特集第四三回放送教育研究会全国大会(和歌山大会)レポート)」『放送教育』一九九三年一月号、一七頁