『現代教育科学』1999年8月号原稿
特集 各教科学習と総合的学習の関連 4.総合的学習で「教科主義」は克服出来るかーー学校知の再開発

総合的学習は様々な教科主義が出会う広場
 〜エセ教科主義を克服して、教科主義の復活を〜


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明


 筆者は、教育工学の視座から、人が学ぶメカニズムに立脚して授業やカリキュラムの構成を考える「教授システム論」を学んできた。様々な教科の実践にいつも「外側からの立場で」関わってきた筆者の結論は、総合的学習では教科主義を徹底的に追求すべきという奇妙なものになった。

教科主義は克服されるべきなのか?

 自然から学ぶ理科。「蝶の足は2本」とならった小学生が4本足の蝶を見つけて「おかしい」と反発、新聞にも取り上げられた。実験の結果について「教科書と違う結果だから実験が間違い」ですませる授業。難関を突破してきた理科系の国立大学生が思わしくない実験結果を見て「自然がまちがっている」と言った。誤差を含むデータから何をどう読み取るか。理論に対する反証のパワー。そういうことが大切にされるのが理科ではないのか。最近は、「実験などやっているゆとりはない」という声も聞かれる。

 民主主義を担う市民を育てる社会科。ごちゃごちゃして覚えきれない思い出しか残っていない大学生が多い。印象に基づいた感想から史実に基づいた意見へと発展させる中学校の授業(安井俊夫氏の実践)を紹介すると、「どっちが正しいかを決めるのではないという結論がいい」「自分が何に対しても意見を持てないのは、丸暗記の社会科のせい?」と、中学校を振り返る学生。他の時代を知り、他の地域を知り、社会の仕組みを知ることで今の自分を振り返り、世の中のことについて自分なりの主張ができ、自他の意見を共に尊重する態度を育てることが社会科ではないのか。あるいは、それは遠い昔の理想であったのか。

 考えていては時間が足りないから問題を見たら解法が反射的に思い浮かぶまで憶え込めという数学。算数も数学も覚える教科か。それとも、筋道立てて考える教科なのか。誤字だらけ、丸写し、そして段落がないレポートを書く大学生。自信がない漢字は辞書で調べる、自分の考えと引用文をわける、主張と裏づけで段落を構成することなどは、習った記憶がないという。国語ほど「情報活用能力」と密接に関係している教科はない。

 各教科で教えるべきことの重要性は益々高まっている。

克服されるべきはエセ教科主義

 総合的学習は、自ら課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する力をつけるために導入されるという。各教科で目指してきた理想像は総合的学習の目的と相反するものなのであろうか。筆者の目には、そうは映らない。むしろ、各教科の理想像が置き去りにされている授業の現状が問題なのではないか。克服されるべきは教科主義ではなく、教科主義と言う名の「なぞり」、「丸暗記」、「あてもの学習」ではないか。

 「なぞり」は、教科の理想像を念頭に置くことなく、指導書などに従って漫然と行われるマニュアル依存授業である。教科書を読ませ、重要事項を解説し、板書をノートさせ、練習問題をやらせるなどのワンパターンになる。教科の目標は研究授業の指導案には姿を見せるが、毎時間の積み重ねで如何にして教科の目標に一歩ずつ近づくかが吟味されることは稀であり、美辞麗句になりがちである。

 「丸暗記」は、いわゆる受験第一主義の弊害として、授業を全般的に歪めているものである、といえば、大方の賛同を得られるに違いない。授業でやってないことが試験に出るという事態を避けるために、なるべく広範囲のことに触れたというアリバイづくりに余念がない。しかし、それを憶えられるかどうかは子どもの努力次第であり、丸暗記にすらも責任をもった授業でもない。いわんや、覚えてなくても調べる方法がわかればいいという主張は通らない。

 「あてもの学習」とは、子どもが授業中に、何が正しい答えかを考えるのではなく、何が教師がここで望んでいる答えかをあてることに腐心する学習のことを指す。教師が知識の伝達者・教科の権威者となることで授業は成立してきたが、権威者の考えを推し量ること、あるいは鵜呑みにすることを目指している教科はない。これまでに築き上げられてきた文化・文明を味わい、先人の知的・芸術的営みを追体験することは大切にされていい。しかし、その次に、多角的な観点から吟味し、クリティカルな目で見直す作業がなければ、教科主義は完結しないのではないか。

教科主義が交わる広場としての総合的学習

 総合的学習が重視される背景には、単一の教科では捉えきれない複合的な問題が山積しているという事情がある。しかし一方で、その複合的な問題にアプローチするためには、これまでの各教科に代表されるような英知を集め多角的に検討を加え、総合的な解決策を見い出すという方法論しか我々は持ち合わせていない。

 たとえば、環境問題。環境教育が叫ばれてから、この問題を「すべての教科で取り扱うこと」が求められてきた。環境科という教科がないために、学校では理科や社会科や学校裁量の時間などから時間を寄せ集め、各教科の単元を相互につなげあわせながら実践を重ねてきた。総合的な学習の時間が設けられることによって、もはやその種の数合わせの労苦を伴うことなく正々堂々と、環境教育ができるようになるのは結構なことである。

 しかしながら、総合的な学習の時間だからといって、環境問題を、理科や社会科などの各教科的な見方以外の方法で扱うことは不可能である。これは、教師が教科の観点を捨て去ることができないという限定的な意味においてではなく、教科の観点こそが我々があらゆる問題を解決するときに動員されるべき方法論に他ならないからである。

 これまでまったく別のものとして扱われてきた各教科だが、同じような丸暗記、なぞり、あてもの学習という罠に陥ってきた。同じ題材を扱うことによって、教科ごとの方法論、教科ごとの目標の違いを明らかにする。理科的に見ると環境問題はこう見える、社会科的に見るとまた別の側面が見える。そういう体験を意識的に整えていくことが必要だ。総合的学習だからといって教科の観点を隠すのではなく、むしろ、それぞれの教科が問題の捉え方や解決方法において自己主張を繰り広げることを目指すべきだ。そうすれば、総合的学習は、それぞれの教科主義が交わり、競い合う広場にすることができる。総合的学習とは、そういう学びのことを言うのだと思う。