『教育展望』(特集:総合的な学習と情報教育)第45巻9号(1999.10月号;通巻494号)(1999.8.20.脱稿;9.9著者校正で一部修正)


新しいメディアを学びに生かす総合的学習
〜『教育のビッグバン』への道〜


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明



はじめに

 新指導要領の実施が移行措置も含めて目前に迫り,週三時間の「総合的な学習の時間」をどうしたらよいかに関心が集まっている。紀伊国屋インターネット仮想書店BookWebで国内和書を検索したところ,「総合」と「学習」を含む書籍が二六六件見つかった。「総合的な学習」で六九件,「総合学習」で八九件,「総合的学習」で七二件と関心の高さを示している。

 これだけ書籍があると,題名をつけるのも大変だろう。単元構成&授業づくり,ガイドブック,実践の手引,研究の手引,特色あるカリキュラム経営,実践ヒント・ワ−クシ−ト集,授業づくりと教師,理論と展開,新展開,展開のアイディアと実践,学校の創意工夫を生かす展開,指導案集,プラン集,展開二三例などのキーワードが並んでいる。なかには,「今日から使える」とか,「初めてのトライも成功!」とか,「ふつうの公立学校でどう創るか」など,これこそ決定版!といいたげなタイトルもある。

 すでに先進的な試みが多数あるようで,これから検討を始める「ふつうの公立学校」のふつうの先生方には大いに参考になるだろう。一方で,小手先のハウツーでお手軽に済ませていいものか,という疑問も拭いきれない。教科書がない「総合的な学習の時間」の精神をいかすために,これらの先進事例をどのように活用すべきか,教師の情報活用能力が問われている。先進事例を取り入れるのはいいとしても,子どもにも「このとおりにやれ」では困る。扱うテーマは今までと違うけど,授業の進め方は今までと同じ,でも困る(のではないか)。

 本稿では,「(今回の教育課程の改訂は)教育のビッグバンの前哨戦ではないか」という井口氏の立場 (1) に依拠しながら,今後の学校改革の方向性を見据えてみたい。具体的な材料として,筆者が実践している,あるいは見聞してきた新しい形の教育への模索をいくつか紹介したい。

 予めお断りしておくが,紹介するのは「総合的な学習の時間」の先進例ではない。切羽詰まっている「総合的な学習の時間」実現へのハウツー的な心配をいったん留保して,なぜ「総合的な学習の時間」なのか,その先はどの方向へ学校を変化させるのかを考えてみたい。それは,「総合的な学習の時間」創設の意義は,今までの学校教育を意識化・再点検し,週三時間だけに留まらない抜本的な改革をスタートさせることにあると思うからである。


一.『メディア論』で学んだこと

 まず,筆者の講義を受けたある学生の文章を読んでいただきたい。転職一年目の筆者が本年度前期に自転車操業で準備・実施した二年生向け専門科目『メディア論』の個人レポートの一節である。

●「長い間考えてきた疑惑が確信に変わった」(亮介)

 私は今年でもう、学生歴が十四年目になる。長い間、授業だ、講義だと受けさせられながら、ずっと疑問に思うことがあった。こんな風に、講師が、先生が黒板の前に立って、あーだ、こーだと話しつづけても、 はたして、どれほどの人が理解し、租借し、そして、発展させていくだろうか、と。決してその全てが無駄なものとは思わない。が、もっと楽しく、効率よく、そして、より実践的な教え方はないものだろうか。授業に出ている生徒のどれほどが同じことを考えているかはわからないが、 少しくらいはいてもいいはずである。そして、その中の幾人かは先生や講師や教授になってもおかしくない。なのに、なぜ、皆、通り一遍の方法でしか物事を伝えられないのだろうか。

 先日、鈴木教授が同じようなことを考えていたのだと知ってやはり、教える立場の人も疑問に思っていたのだ、と学んだ。そして、この疑問を少しでも解消できないものかと考える気持ちができた。大袈裟に言えば、人間という個人の資質は幼い頃からの教育によって決まると私は考えている。その教育に、無駄な部分が多いのではないかとも考えている。そして、その無駄な部分をなくす努力をしてみたいという気持ちになったのは私事ながら、とても重要なことである。


 筆者の勤務する学部は,教員養成課程を持たない,ソフトウェアと情報に特化した専門学部である。『メディア論』も,とりたてて教育におけるメディア利用を扱った講義ではない。マスコミのもたらす情報がいかに「編集」されているのかを映像を交えて紹介し,ネットワーク時代の情報表現の可能性や人間自らのメディア化について実演し,語った。

 学校や大学も「メディア」の一つであるという言い訳のもと,筆者の専門分野(教育工学)に踏み込んだ講義の一場面で,この情報過多の時代にあって,漫然と「講義」という形の学びを続けることに疑問を投げかけた。講義ノートと大量の資料を印刷・配付し,「本日の講義は口頭ではやらない。この資料を読んで,提出用プリントに書かれた問いについて答えて提出すること。この部屋でやってもいいし,外にでてやってもよし。質問には応じる。」と突き放した時もあった。また,「自分で調べてWebにまとめて,その所在を掲示板に書き込んで知らせること」という形のレポートを最終試験の代わりに課した。提出されたレポートの一つが,冒頭の文章を含むものであった。

 八十数名の受講生のうち,二十名近くがメディア論の内容に関するコメントに加えて,メディア論での学習体験を振り返ったコメントを寄せてくれた。学校というメディアで長年育まれてきた学習観(学ぶことについての常識)を再点検してくれたことを,とても嬉しく思っている。もう一人の学生の文章も,是非読んでいただきたい。

●「モノゴト 分かり始めると楽しい!!」(裕美)

 最初は難しそうな問題に立ち向かい、つまらない。 しかし、調べていくうちに分かり始め、その問題が楽しくなっている。今回の課題でキーワードを調べていくうちに表面的に難しそうな単語だったりする。意味を調べていくうちに、面白くなったりもする。ここで、 この”面白くなったりする”という事が大事なのではないだろうか。 基本的に、まず興味を持つことを前提に学問が始まるわけだから。興味を持つことは大小関係ない。自分で学ぶという姿勢が大切なんだと思う。 私はまだまだ、学ぶことがたくさんある。興味を持つことから、 学んでいこうと思う。


----そう,君たちは,大学教授になんか頼らなくても,自分たちでどんどん学んでいけるんだよ。大抵のことは本に書いてあるし,インターネットでも検索できるし,「できるヤツ」も周りにいるし。どうしてもわからなくなったら,聞きにおいで。答えを教えずに,本を貸してあげるから。

 受講生の中には,こんな強者もいた。こういうレポートには,参ってしまう。

●「鈴木教授は情報操作の鬼を演じた?」(拓也)

> 『メディア論』的にとらえると,講義という大学における
> 学びの形式は,前近代的である。(以下略)

などと言いつつ、やっぱり「大学の講義」的な講義を行う鈴木教授。「自分は講義のスタイルは好かん」などと言って学生たちの共感得て、堂々とふつーな講義を続けたニクイひとである(と私は思っている) 。哀れな岩手県立大学ソフトウェア情報学部の学生たちは、鈴木教授のこのような言霊によって操られることとなってしまったのであります。 ある意味、この講義形式全体で「情報操作とかってこういうもんなのだよー。それにはよー気づかんかい、ボケェ」という、鈴木教授から我々学生に対するメッセージだったのではないだろうか? え?考えすぎですか? まあ、こういう解釈しても文句は言えないような講義内容だったからなぁ。


----バレたか。でも,嬉しいです。


二.N社の「驚くべき」新入社員研修プログラム

 SEA教育分科会が主催する研究会に参加した。約二十人の参加者が都内の研修施設に泊まり込んで,お互いの事例を発表した。NECソフトウェア新潟(以下N社)に採用されたSEの新人教育を依託されたベテラン担当者が,かなり思い切って七日間研修を実施したという報告が参加者の興味をひいていた。

 その研修では,プリントがうまく使われていた。委託元に提出した研修予定表には「講義九十分」と記されていた一時間目。そのベテラン担当者は,「こんにちは,東京から来た篠崎です。」と挨拶をしたあとでプリントを配付。それで,九十分分のしゃべりを終えた。あとは,ひたすら待った。最初の質問が出るまでの三十分は待つのがしんどかったとのことであった。

 配付されたプリントには,最初の課題と,その課題が合格となる基準のチェック項目が明記されており,「質問があったら担当者に聞くこと」と注意書きされていた。手取り足取りの指導を受けるという構えで参加していた新入社員にとって,何もしてくれない講師の出現はカルチャーショックだったに違いない。しかし,それ以降の研修は,活気に溢れたものであり,研修効果も十分に達成されたとのことであった。

 筆者が驚いたのは,この研修プログラムの方法論ではない。その研究会に集まった企業内教育担当者が,「それは画期的な方法だ」「やってみたいが社内事情でうちでは無理だ」と口を揃えたことだ。米国で教育工学を学んだ筆者にとっては,研修目的と合格基準を最初に示し,あとはまず研修生が自分のやり方で学びを進めるという研修の方法は,ごくごく当たり前の方法だと思っていた。日本では,(学校ならばいざ知らず)企業では目標準拠型の研修が当たり前だろう,と想像していたので,N社の事例を聞きながら「さすがに企業内教育,やることはしっかりやっている」と思ったのは確かだったが,他の企業の担当者にとって目新しい画期的なことだとは思わなかった。

 講師は研修生に合格条件を提示したら,「講義」と称して自らの体験談などを披瀝して(あるいはテキストに書いてあることを今さらのように解説するなどという無駄な営みによって)いたずらに研修時間を奪ってはならない。基礎知識も適性も,あるいは学びのスタイルも異なる研修生を一度に集めて,同じ方法・同じペースで学ぶことを強いるのは効率が悪い。研修意欲に燃える研修生のやりたい方法で,自らの工夫をこらして,合格条件をクリアすべく学びを進めることができるように,やりがいのある課題と,たっぷりとした時間と,機能的な学習環境を確保すること,あるいは研修生相互のチームワークを促進すること。これこそが講師の任務である。企業内教育担当者の間でこの考え方が常識でないということを知って,とても驚いたのである。

 事例発表会では,この方法での研修をすすめるために障害となることは何か,という点に議論が及んだ。研修環境の整備が困難であること,一度に面倒を見られる研修生の人数に限界があること,上長の理解が得にくいことなどの問題点が挙げられた。しかし,最も実現が困難なことは,一つには「研修生が自ら動けるような,動きたいと思えるような現実的な課題を設定し,合格基準を明確に提示すること」であり,また他方では,「研修時間を牛耳らずに黙って耐えることができて,研修生が求めてきた時に的確なアドバイス(あるいはアドバイスの留保)ができる講師を確保すること」という結論であった。

 確かに,このN社の成功事例をもたらしたベテラン講師は,目標準拠型の研修技法についてのトレーニングを受けており,また長年にわたる講師経験もあり,現実的な課題設定と明確な合格基準の提示ができる人だった。また,「自分から動かないと何も始まらないということだけは新人に教えたかった」という明確な意図で,意識して自分を押さえることができる人でもあった。

 昨年この研修を受けた新人だった社員が,今年の新人研修の手伝いをしたいと申し出てくれたので,今年の研修は楽ができそうだという。それを聞いて一同が「この研修を経験した彼らならば,十分に講師がつとまる。それ以外の人には難しい。」との点で意見が一致した。企業内教育でさえ,そこまで「講師が研修生に向って説明をする。研修生はそれを聞いてノートする。」という学習スタイルが染み渡っている。

 この学習観がどこで培われたのかは明らかである。そう,学校の授業で,である。どこが面白いのかまったくわからない内容を,とにかく先生から言われた通りに学ぶ。ひたすら覚えて,なんとか点数を取る。勉強とは無味乾燥で辛いもので,自分から進んでやるものではない。生涯学習の時代だと言われて,次々と自分が成長していけるバラ色の時代を思い浮かべる代わりに,あの辛さが一生続くのかと暗い気持ちになる。「学ぶ」ということに対して否定的なイメージが共有されていることは,とても残念なことである。


三.新しい学びのスタイルを提案する教員研修

 授業のやり方を変えるためには,教員研修の方法を見直す必要があるのではないか。このことを,筆者はずいぶん長い間考えてきた。かつてコンピュータが学校に入った当時,教師の動揺や抵抗の理由の一つとして水越氏が指摘したのは,「教師自身がこれまでコンピュータを利用して学んだ経験がないこと」 (2) だった。公開授業などで新しい授業の方法論に触れることで,「私もやってみよう」と思うきっかけが与えられることもある。しかし,教師自身が受けてきた授業が,教師主導の一斉授業であったならば,それ以外の授業をやってみようとすることは至難の業である。これまでに様々な新しいメディアが教室にもたらされてきたが,それらはことごとく,今までの授業のやり方に適合する形で取り入れられてきた。教師主導の授業の方法論は,様々なメディアが取り入れられた今日でも大筋で変化していないという。

 新しいメディアについての研修に立ち会い,そして自分も担当する中で気づいたのは,研修方法が講師主導の一斉授業そのものだ,という事実である。これまで教員研修の多くの時間は,講師からの情報を吸収するための座学に割かれてきた。研修を受けた先生方が職場に戻れば,受けた研修の内容を同僚に伝えるための「伝達講習」を実施し,研修で得た知識をより多くの教育関係者に広める努力をしてきた。この座学研修と伝達講習の研修スタイルは,古くからの教師主導による伝達型の授業と同じスタイルではないか。

 コンピュータ操作方法などの技能研修でも,講師の指示に従って,全員が同じペースで同じ作業をするという光景をよく見かける。全く経験がない先生は,内容が高度すぎて講師の説明の意味することがわからないまま,とにかく作業を進行させる。一方で,自宅などで使いこなしているのだろうか,退屈そうにしている先生も参加している。コンピュータやマルチメディア教材を使う学びが,教師主導による伝達型のこれまでの授業からの脱却を目指すのであれば,研修のスタイルも同様に,変えていかなければならない。メディアを媒介にする学びは,新しい時代の学びをイメージさせる最良の道具になるからである。

 毎年夏に担当してきた宮城県の視聴覚教育研修(中級)では,担当部局のご理解のもと,「しゃべらない講義」と「自由に過ごす実習」を試みている。「しゃべらない講義」では,筆者がこの研修で講義をするとしたら言いたい事柄について,あらかじめコンピュータ教材を作成しておき,それを使って各自のペースで学習してもらう。関連する筆者の論文なども印刷して用意しておき,必要に応じて参照してもらうのである。「自由に過ごす実習」では,学校図書室が進化した学習情報センターに見立てた実習室で,インターネットに接続しているパソコン,各種のマルチメディア教材が体験できるパソコン,ビデオブース,関連書籍棚などを配置して,研修目標と各種活動の連関を示すマトリックスと実習室見取図を配付し,「本日の午後は,どうぞ御自由にお過ごしください」とする。

 研修を受けて何を知りたいのか,何ができるようになりたいのかを,自問自答してもらうところから始める。調べ学習の授業でよく見かける「課題探し」の場面である。重要事項を講師が選んで,それをなるべくわかりやすく伝える。それが今までの研修の主たる方法論であったから,この研修に集まる先生方もそれを期待してくる。とても不親切で,いい加減な研修,というイメージを捨てきれずにお帰りになる参加者もおられる。一方で,次のようなコメントを残してくれる方も少なくない。この先生方が新しい授業をつくってくれるのではないか,と期待している。

  • 「自己選択,自己決定,自己責任の授業をもっと小,中,高でやってほしい。だから今,大学では困っている。」導入でのこの話が一番印象に残りました。課題を自分で見つけるということは難しいけど,与えられるより意欲がわくものですね。

  • 教えられたいと思って来たことに矛盾するが,自由に自分の求めるものを見て触ることができたのは,素晴らしかった。教えよう,教えなければと思っている日々,子どもたちは教師から遠離っているように感じている日々でした。

  • 自分自身の授業でも教師の意向,むしろシナリオ通りに無理にでも進めてしまうことが多かったが,何をしたいかという目的が見つけられれば自主的に学ぶことができ,かなり集中して取り組めることが分かった。完全に自主的な研修。

  • 自己選択,自己決定の場を引き出す授業実践を過去4年間ほど学校全体で取り組んできたが,実際に学習者の立場として参加したのは初めての経験であり,学習に対する新たな視点をいくつか発見できた。


 コンピュータ関連の研修の在り方を提案するプロジェクトでは,「この研修を受けることで,新しいことを学ぶとき(教師には研修,子どもには授業)には,こんなやり方もあるんだ,ということを体験して欲しい。」という考え方を示した。コンピュータ教育開発センターが本年度取り組んでいる「教育の情報化推進事業:司書教諭・SE等の連携による教員の情報化研修支援システム開発」では,この提案を採用していただき,校内教員研修カリキュラムに講師に頼らない自学自習の原則を取り入れた。コンピュータ授業を計画する研修を,先生方がグループを組んで自主的に行なえるような研修用ビデオとテキストを開発中である。

 日本教育工学振興会でも,「教育の情報化推進事業:情報化推進コーディネータ・リーダ養成のための研修システム開発」に取り組んでいる。ここでは,文部省と各教育委員会が主催して行う教育情報化推進指導者養成研修向けに,自学自習ができるCD-ROM教材を開発している。この研修においても,研修参加者それぞれが研修開始時の実力を自己診断し,研修後の達成を自己評価する形で,自主的な研修ができる仕組みを取り入れた。

 授業をかえるためには,まず研修の方法を見直すこと,という筆者の思いが,少しずつ形になってきたのを見るのは嬉しいものである。


おわりに

 非常勤で「教育学」を担当している夜学の看護学校でも,「しゃべらない講義」を実践している。村井実『新・教育学のすすめ』(小学館)を1章ずつ読みすすめるための書き込み式プリントを準備し,各自が本を読んで,プリントに要約や意見を書いていく。そして,関連したビデオをみんなで視聴し,感想をプリントの裏に書いてもらう。林竹二の「人間について」,小学生ジャズバンド,不登校児を支える留守番電話,記憶を紡ぐ臓器:脳,競走のない運動会,福室環境学会,米国の自由主義学校サドベリーバレー校,そして,きのくに子どもの村学園の実践などである。日中の勤務で疲れた体に,毎週しんどい読書と眠れないほど刺激的なビデオを提供しようという作戦である。

 最後の週に,「教育」という言葉に対するイメージが変わったかどうかを聞いてみた。何人かの反応を紹介したい。

  • 私が今まで受けてきた教育は,おしつけられ,やらされる教育であった。先生に言われたこと,教科書に書いてあることだけを,頭に入れてきた。しかし,それだけでは,何の教育も受けてはいなかったのだと気づいた。自分で興味を持ち,頭で考え,体験し,行動しないことには,教育を受けていないものと同じだと思った。少し気づくのが遅かったが,教育に対する考えは変わった。(由香)

  • 「教育」=押し付けがましい,と思っていた。そう思っていても,それを受け入れなければ劣等生となってしまうので,受け入れそれに慣れ親しんできたが,なにかがおかしいのではないかと考えなければいけなかったのだと思う。何かそんなことを考えるゆとりがなかったんだなあと思うと自分が情けなくなる。だが,(嫌々ながら)この本を読んでみて思ったことは,ゆっくりやるだけではゆとりではなく,自分のペースをつかむことがゆとりをもつことになるのではないか。自分を知ることから始まって,個々のペースで進んでいくのが大切であることを学んだ。今さらそのことに気づいても,今までの教育に従ってきた自分を変えることは不可能なので,せめてその考え方を忘れず,自分の子どもたちには自分というものを理解させてあげられる親になりたいと思う。そして今動き出している日本が変化していくことを強く願う。(美紀)


 「今までの教育に従ってきた自分を変えることは不可能」だと捉える自己概念を育てたのも,彼女が受けた学校教育の副産物なのだろうか。心が痛む。

 「総合的な学習の時間」の運営に関わる人たちの手によって,週三時間の改革を皮切りに,学校における「教育のビックバン」が進んでいくことを期待したい。今なぜ「総合的な学習の時間」なのか,そして,どの方向に学校改革が進むべきなのか。このことを考えるときに,本稿でご紹介した試みが,間接的に参考になれば幸いである。「総合的な学習の時間」では,教師は子どもの学びに直接立ち入って「正解」を提供してはいけないのだとすれば,一見かけ離れた事例からヒントを得る力が教師にも求められるのだから。

 蛇足ながら,筆者が共通して用いている方策の一つが「感想を書き残すこと」であることを読み取っていただけると幸いである。教える側にも,そして学ぶ側にも,自律的に徐々にゴールに近づくための「確かめながら進む」フィードバック情報を提供してくれる。



参考文献

(1)井口磯夫(一九九八)「情報教育に求められる新しい授業の創造」『教育展望』一九九八年十月号,十四-二三

(2)水越敏行(一九九〇)『メディアを生かす先生』図書文化




-----ボツ分------

一.『メディア論』で学んだこと

私の役割は,つばを飛ばしながら退屈な話をすることではなくて,君たちに「やること」を与えること。学びのきっかけを与えること。そして,やさしく(厳しく)見守ることなのです。自分の知識を見せびらかして学生から「学ぶ楽しさ」を奪うことではなく,「親切なおじさん」になりたいという願望をじっと我慢して,いじわるして,しかし自力でできたことを一緒に歓ぶ人になることなのです。

 最後に担当者である筆者が学んだことを,最終レポートサンプルWebより引用したい。
●『講義』という伝達手段は,嫌いであること(鈴木)

 『メディア論』的にとらえると,講義という大学における学びの形式は,前近代的である。 黙って聞いている,という約束の元に,90分という長きにわたって,一方的に情報の伝達が行われる。グーテンベルグによる印刷術の発明によって,口頭による知識の伝達という形式は,その使命を「教科書に書いていないようなホットな研究成果や裏話的内容」に限定されたはずであるにも関わらず,他の学習メディアが氾濫する今日においても,営々と続けられている。その結果として,自分で書籍から学ぶというもっとも基礎的でパワフルな学習ができない(あるいはしない)大学生を育ててきている。それを無批判に,あるいは未検討のまま,自らが行うのはいやだ,ということが今回の講義で確認できた。



三.新しい学びのスタイルを提案する教員研修

●一切講義形式ではなかったことが印象的です。事前にこのような形式であることが分かっていたら,自分なりの課題を準備し,その解決の過程で自分に必要な助言が得られ,より満足できる研修ができたと思う。


おわりに

●「ゆとり」こそが学校でなければならない。これは確かに理想的だと思うが,今現在学校へ行っている学生の半分もそうは感じていないと思う。ただ単に「義務」。すごく残念なことだと思う。もっと本気で「教育」について考えたいという時期がきたら,もう一度この本を読んでみたいと思います。残念ながらこの本を読むのが私の「義務」だと思っていたので,そう大きなイメージの変化はなかったような気がします。(千恵子)