『放送教育』2000年9月号原稿(脱稿2000.8.5.)


「通信制高校にとっての放送教育」から学んだこと


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明


 本年6月14日から16日にかけて、第52回全国高等学校通信制教育研究大会が東京都総合技術教育センターと隣接する東京都立工芸高等学校とを会場に開催された。筆者は、第5分科会(放送教育)の助言者として参加し、全国の通信制高校で放送利用に尽力されている多くの先生方と知り合うことができた。

 筆者と通信制高校における放送利用との出会いは、約5年前、大宮中央高校の水野浩樹先生に依頼されて、関東地区大会にお邪魔したときにさかのぼる。それまで親しんできた全日制の、しかも小中学校を中心とした番組制作・利用研究との違いに戸惑いながら、愚問を重ね、そのたびに親切に対応していただいて、ようやく自分なりの理解が得られたと思う。

 本稿では、通信制高校における放送利用を通して、今変革が求められている学校教育と学校放送に携わる者が、どのような示唆を得ることができるかを考えてみたい。結論は、「通信制の良いところを取り入れることで、通学制の学校でも主体的な学びが成立するのではないか」ということである。


放送は何のために使うのか〜通信制にとっての放送利用〜

 通信制に親しんだ5年間、もっとも筆者を悩ませたのは「減免措置」としての放送利用という制度であった。「減免措置」とは、週1回の登校(スクーリング)による授業(通信制では面接指導と呼ばれている)を受ける代わりに、放送を視聴したレポートをもって単位を認定できる制度をさす。

 通信制はもともと、自宅での学習成果をレポートの郵送によって報告しながら勉強を進めることで単位を認定する方式である。筆者には、放送視聴レポートを書くことは、通常の(教科書に基づいた)レポートを提出する代替となったとしても、スクーリングの代替に何故なるのかが、不可思議であった。

 放送利用は、授業をより効果的に達成する手段になる。理科における演示実験や、英語における外国人の会話等のように、通常の授業では得にくい体験を放送番組によって提供しようとする。スクーリング必要時間の10分の6以内の減免措置が学校裁量で可能である。なるほど、そういうものか、とも思った。

 ところで、近年の通信制高校の若年齢化(平成10年度に平均年齢が20歳を割った)、とりわけ全日制高校からの転・編入生の増加に伴って、スクーリングの減免措置には別の意義も見出されてきている。すなわち、学校に来にくい生徒のための、欠席を補填するための利用である。転・編入生の数は、昭和52年度に2406名であったのが、平成12年度には17796名にまで増加しており、近年の増加は特に著しい。従来から、年度末になって「出席日数が不足したので、視聴レポートで何とか必要条件を満たして単位を認定する」といういわゆる「駆け込み減免」はあったようである。しかし、不登校児の受け入れが増えるにつれて、「駆け込み」が日常化している。

 この「減免措置」が、放送利用を法的に支える制度である一方で、教員が放送を積極的に利用したくない理由にもなっている。「どうして放送を利用することが私の授業の代わりになるのか。ただでさえ(全日制と比べて)少ない生徒との接点を放送で代替することで、さらに少なくしたいとは思わない。」という考えの先生は少なくないという。これも、もっともな話だと思う。

 一方で、筆者がいまだに整理しかねる問題がここにある。つまり、放送利用によって「減免」されるスクーリングとは何か、という疑問だ。放送は、生徒個々の学習状況に応じた支援を提供するメディアとしては、効果的ではない。むしろ、学習のきっかけを継続的に与えたり、課題への興味をかきたてたりする目的で、一斉、かつ、一方的な情報提供を行うのに適したメディアである。そのような特性を持つ放送番組によって減免されるスクーリングとは、それでは、どのような目的で実施されるものなのであろうか。

 通信制で「授業」という言葉の代わりに「面接指導」という言葉が用いられていることからみても、その本来の趣旨は、普段は家庭で一人で進めている学習で疑問に思ったことを解決する手助けをしてくれるような指導を行う場なのだろうか。あるいは、体育における球技やディベートなどのように、一人ではできない活動のために集合するチャンスでもあろうか。それとも、家で放送を利用することでも満たされるような、一斉の受身的なスクーリングだからこそ「減免措置」の対象となるのだろうか。

 ある教師は、「通信制の生徒にも、全日制のような一斉授業を体験させたい」と言う。毎日通学できないのだから、せめで週1度ぐらいは「全日並」に、という「恵まれない(筆者は必ずしもそうは思わないが)」子どもを思う親心、というわけだろうか。また、ある教師は、スクーリングでは、誰もが自宅学習でつまずきそうなところを取り上げて、解説することが主たる活動だという。そういうことは、本来、通信制で使われている「学習書」(教科書の他に購入が義務付けられている学習ガイド)に書いてあるはずのことではないのか。聞けば聞くほど、放送利用の減免措置の対象となっているスクーリングとは、いったい何を目指したどのような時間なのかがわからなくなるのである。


より確実な学習の手段として〜放送利用推進者の主張〜

 通信制で放送教育を推進している先生方は、必ずしも減免措置にこだわっている訳ではない。減免措置を「生徒と放送を出合わせる手段」として捉えているようだ。すなわち、減免になるからその分だけ放送を利用させる、という「減免=運動の目標」ではなく、減免と言うきっかけで生徒に放送と出合わせて、通信制での学習の友としての、ひいては、生涯にわたる学習の伴走者としての放送の存在に気づかせ、より豊かな学習者に育ってほしいと願っている。いわば、「減免=入口」という位置付けである。

 放送番組は、言うまでもなく、定時に送り出されているので、生で利用すれば学習のペースメーカーになり、学習の習慣化を促す。早朝深夜の放送が多いため、VTRやカセットテープに録画・録音して利用している場合も少なくないというが、通勤途中に耳だけ学習という利用も行われている。かつては基礎基本中心だった番組も、徐々に教養志向で学習に厚みを持たせる(一般の視聴者にも好まれるような)傾向に変化しているとのことであるが、いずれにしても、学習を習慣的に進めるパートナーとして適していることは確かであろう。

 放送利用の促進策としては、チャンスを増やすためのさまざまな工夫が試みられている。たとえば、番組案内を配布していつどんな番組があるのかを知らせる、学校の視聴室に録画・録音した番組を揃えてテープライブラリーとする、スクーリングでの視聴を通して放送と出合わせる、通常のレポート課題へ「視聴課題」を組み込んで番組と学習との接点をつくる、などである。これらを通して、自分たちの学習に関係している番組があることを認知させ、放送が役立つという体験から、放送が自分にも理解できるという経験を与えていく。最終的には、自宅で自主的にスイッチを入れてもらうことが目標とされるのである。

 通信制高校には、学習についてのネガティブな経験を持ち、新たに学習を始めるための援助を必要とする生徒が急増している。しかも、通信制という学習形態は、相当な自助努力を要求する。毎日とにかく学校に行って、教師の指示に身を任せているという贅沢は許されない。忙しい日常の中に、学習のための時間を確保し、自ら教科書に向かって情報を収集し、レポートにまとめていくことが要求される。

 「主体的に学習を進められる生徒をいかに育てるか」という指導法上のノウハウは、このような状況からの必然として、通信制高校に蓄積されている。今こそ、このノウハウを広く共有し、通信制という枠を超えて、取り入れる努力をすべき時ではなかろうか。

 5年間の付き合いの中から見えてきた通信制における指導上の工夫は、「課題レポート」の内容と利用方法の指導に集約できるように感じている。つまり、教科書と学習書で生徒が自分で学習をすすめられるようにもっていくために「課題レポート」はいかに設定したら良いのか、に関するノウハウが蓄積されてきた。レポートの中に「視聴課題」を取り入れ、放送利用への方向付けも加味されてきた。さらに、レポート提出のスケジュールを立てさせ、締め切りを自分で設定する方法や進捗状況をモニターする方法、スケジュールの遅れを挽回する方法など、自律的な学習方法を身につけさせる試みにも挑戦してきた学校もある。

 このノウハウを、通信制高校間でどう共有するか。また、インターネットなどの新しいメディア環境にどう生かすか。さらに、このノウハウを変革が求められている全日制高校にどう「転用」するか。その他のノウハウ(たとえば、辛抱強くつきあうノウハウ、ゆっくり時間をかけて卒業させるノウハウ、生徒間の違いを認めるノウハウ、あるいは、挫折感がある生徒に接するノウハウ)も合わせて、通信制高校に学べることは少なくないと思う。


通信制教育から遠隔教育へ

 さて、インターネットなどの情報通信環境の変化が著しい昨今、通学によらない学校がさまざまな形で試みられるようになった。いわゆる「遠隔教育(Distance Education)」と総称されている。高校から大学院の博士課程まで、インターネット上で卒業することが可能になっている。このような変化の中、そもそも遠隔教育は理論的にどのように捉えられてきたのかを整理した論文がサイモンソンによって発表された。サイモンソンによれば、歴史的に遠隔教育を支える理論は3つあった。

 遠隔教育を支えてきた第1の理論は、自主自律理論である。遠隔教育を、<距離>と<自律的学習>によって捉えるものである。<距離>のハンディは、双方向性(生徒と教師との対話)とプログラムの柔軟性(応答性)によって補う努力がされてきた。逆に言えば、遠隔教育での<距離>を補うためには、生徒と教師の対話をいかに確立させるか、また、生徒のニーズにあわせるプログラムが提供できるかの2点が重要だとする。

 また、伝統的な学校では、教師の働きかけに依存して受動的に学習を進めることができるが、遠隔教育では、生徒が責任を持って自分で学習を進めなければならないことを受け入れる必要がある。つまり、<自律的学習>が遠隔教育には不可欠である。ここでは、教師は「指示者というよりはむしろ応答者」であり、生徒が主体的に学習を進め、教師は求められた時にアドバイスをする(求められなければ指示しない)という関係にならざるを得ない。

 しかし、自律的に学習を進めることができずに、どんなめあてをもって学んだら良いのか、何を参考にしながら学習を進めたら良いのか、あるいは、学習がどの程度成果をあげたのかなどについて、教師からの助言を必要とする生徒も多い。ここに、自律的に学べない生徒を自律的な生徒に育てていくことが、遠隔教育を成立させる条件として浮かび上がってくる。日本における通信制高校だけでなく、遠隔教育一般に等しくあてはまる事情である。

 遠隔教育の2つ目の捉え方は、産業化理論である。伝統的な口述中心の一斉指導という授業のやり方は、産業革命以前の教育形態であるとし、遠隔教育を採用することによって、教育を標準化し、より多くの学習機会を提供し、しかもコスト効果を高めることが可能になったと考える立場である。産業化理論から見ると、遠隔教育という発想は、産業革命の産物とも言え、「労働の分化」、「道具の利用」、「組み立てライン」、「大量生産」、「標準化」、「集中化と中央集権化」などの特徴を備えていることになる。

 第3の理論は、双方向コミュニケーション理論である。遠隔教育は「導かれた教育的な対話」として捉えることができる。遠隔教育の効果は、そこで展開する教師と生徒の間の問答や議論に基づく「一体感・帰属感や連帯意識」等で説明できるとする。遠隔教育が成功するためには、生徒のやる気をサポートし、学ぶ楽しさを促し、学習する事柄を生徒にとって意義深いものにしていく必要がある。生徒と教師がお互いに理解し合える関係を樹立し、教材に向かおうとする気持ちや、各種の活動、議論、ディスカッションなどに積極的に参画する気持ちを高めることによって、生徒への、あるいは生徒からのコミュニケーションを促進できると考える立場である。

 以上の3つの理論を受けて、サイモンソンは、「同価値理論」を提唱する。すなわち、通信技術の発達などによって、擬似的な遠隔教育環境(バーチャル教室など)が可能になってきている現在、何が遠隔教育で何がそうでないかを区別しようとするよりも、遠隔・通学を問わずすべての教育経験に「同等の価値」を持たせることに主眼を置くべきだと主張する。

 それぞれが置かれた環境によって、学習の経験は様々な様相を呈するであろうが、全体として同価値になるように学習の環境をデザインすべきだと言う。ここで、同じにすることを目指すという意味は、「同型」ではなく「同価値」であり、たとえ教師と生徒が同じ場所と時間を共有する形でなくても、お互いの意思疎通を図ることは可能だとする。遠隔教育は「普通でないもの」、「通常の学校とは違うもの」と捉えない姿勢を強調している。


おわりに:対面教育と遠隔教育の将来

 本稿を閉じるにあたって、OECDがまとめた『ラーニング革命:IT=情報技術によって変わる高等教育』 が指摘している「遠隔教育による教育のパラダイムシフトの可能性」を紹介しておきたい。遠隔教育の本質的な性格についての基本的な問題は、距離の問題ではなく、対面教育にも遠隔教育にも当てはまる<ガイダンスを伴った自学習>の概念であるとし、教師が教師としての自分たちの役割を捉えなおす可能性をもたらすという。

 「定時制や遠隔教育の学生(生徒)であることが不利であると考えるのではなく、今や、教師は認識を新たにしなければならない。遠隔教育のみならず一般学生(全日制生徒)や対面教育の学生(生徒)も含むすべての学生(生徒)に対して情報通信技術がもたらす利点は何か、ということについてである。教師は、遠隔教育という教育方法を次善の解決策と考えるのではなく、自分たちの主張する教育手法をとらえ直し、それがどの程度説得性のある方法で提供できるのか自問自答しなければならない。(OECD, 2000, p.94;括弧内は筆者が加えた)」

 「対面教育機関の教師は、設定した学習成果を達成するように指導することに強い責任感を持っている遠隔教育の教師から多くのことを学ぶことができる。(同書、p.125-126)」

 放送と通信の融合が進む時代に、放送教育関係者に一読をお勧めしたい。


参考文献


Simonson, M. (2000). Equivalency theory and distance education. TechTrends, 43(5), 5-8.

OECD (2000) 香取一昭(訳)『ラーニング革命:IT=情報技術によって変わる高等教育』 エルコ(第2部:対面教育と遠隔教育の将来)