『教育展望』2000年10月号原稿(脱稿2000.8.15.)
特集:情報活用の実践力の育成に向けて


インターネットを活用する新しい授業づくりに向けて


岩手県立大学ソフトウェア情報学部教授 鈴木克明


トルコからインターネット越しにつながる日本


 筆者はこの夏、国際協力事業団のカリキュラム開発短期専門家としてトルコ保健省コミュニケーションセンターに滞在した。夏休み期間中であったが、その間の仕事をすべて空白にして赴任したわけではない(この原稿執筆も含めて)。「トルコに行きますけど、電子メールは今までのアドレスで使えますから」と、何人に言い残して来ただろうか。毎日のメールチェックは、トルコの首都アンカラにいても、岩手と変わらずの日課であった。電子メールを見ている間は、自分が日本から遠く離れた中東とヨーロッパのはざまにいることすら忘れそうになった。

 筆者のトルコ赴任中の研究室では、留守を預かる大学院生を中心に、情報教育の入門教材を開発するプロジェクトを進行させた。ディジタルコミュニティ推進協議会からの委託研究で、デジタル・デバイド(情報格差)解消を目指す地方の非営利団体(NPO)の活動に用いる教材づくりである。電子メールがあるし、開発中の教材はホームページ上で閲覧できるので大丈夫、ということで、これもまた、トルコでの仕事の合間をぬって、電子メールに答えたり、ホームページ上で助言したりした。

 赴任前に見た日本のテレビで、ノート型のパソコンと携帯電話を持って業務をこなし、会社にはめったに戻らないという方式で働くサラリーマンの姿が紹介されていた。名づけて「どこでもオフィス」。これを学生に紹介したら、「それは『どこでもオフィス』ではなくて『どこまでもオフィス』ですよ。いやだなぁ僕は。」と言われてしまった。インターネットの存在が筆者の7週間に及ぶ赴任を支えた一方で、「今、海外出張中ですから仕事ができません」という言い訳を困難にしていたことも確かである。インターネットで仕事がしやすくなった一方で、息苦しくなった一面は否定できない。あとは、この道具を上手に使う知恵が待たれているのだと思う。


インターネットは「すぐそこ」まで来ている

 さて、日本の学校では、急速にインターネット接続が進んでいる。文部省が2001年までに日本の公立学校すべてをインターネットに接続するように国家目標を前倒ししてから、財源が地方交付税任せであるにもかかわらず、また、県単位でのスピードに多少の差はあるものの、変化は著しい。すべての学校までインターネットが来る日は、そう遠くない。

 一方で、整備が遅れた地域は、整備が進んでいた地域に比べて、より新しい、より恵まれた通信環境が実現できるという逆転現象も起きている。つながったことで安心することなく、技術の進展や利用の実態に応じて、より快適な通信環境を目指すことも必要だ。つながればよいというわけではないということは、トルコに来て、お世辞にも「高速回線」と言えない状況に久しぶりに戻ってつくづく感じたことであった。

 ところで、インターネットはすぐそこまで来ている、という実感は、教育の情報化を推進している先生方はともかくとして、平均的な(?)先生方にはどの程度現実的なのだろうか。職員室で使われるノート型のワープロに変わって、パソコンが増えているのは確かなようである。文部省の調査でも「コンピュータが操作できる教員」の内容の一つとして、「インターネットにアクセスして必要な情報を取り出すことができる」が挙げられており、操作できる教員は3人に2人程度にはなっている(鈴木、2000)。

 電子メールを日常的に使っている教員はまだ多数派ではないかもしれないが、ホームページを見たことがない、あるいは使い方を知らないという教員はすでに少数派になっただろう。インターネット環境の整備が進むことで、文書作成にワープロ(あるいはワープロソフト)を使うのがあたり前になったように、「ホームページから情報を収集して、授業作りに役立てています」という教員が多数派になる日もそう遠くはないのだろうか。それとも、インターネットがすべての学校に来たにもかかわらず、一部の教員を除いては、先生方の日常とはかけ離れたところに存在し続けるのだろうか。子どもに活用させる前に、まずは先生方が馴染むために、「何はともあれ、まず先生方の机までインターネットを」という目標を掲げるべきであろう。


「すぐそこ」から「ここ」までの道のり

 インターネットがすべての学校まで来たとしても、先生方の日常や普段の授業が一変するほどの変化は期待できない。インターネットをきっかけとして今の授業を変え、学校を変え、ひいてはそこから育つ子どもたちを変えていくことを目指すためには、すべての教室にまでインターネットを引き込む必要がある。「すぐそこ」(学校のどこかの部屋)までインターネットが来るのではなく、「ここ」(各教室)まで来て初めて、日常の中に組み込まれる可能性が生じる。

 バーチャルエージェンシーがこの目標を提言し、ミレニアムプロジェクトで教育の情報化を推進するゴールとして「すべての教室にインターネット」を掲げたのは、米国での同じ国家目標が達成されつつある現状に追従した形にはなったが(鈴木、1999)、正鵠を得たものである。2005年までに実現されるかどうかは不安であるが、ぜひそうなって欲しいと思う。インターネットには、今までの授業の常識や子どもと教師との関係の常識、あるいは学習についての常識を揺り動かすだけのポテンシャルがあると思うからである。

 「すべての学校まで」から「すべての教室まで」にコマを進めるためには、校内ネットワーク(LAN)の整備が不可欠である。文部省の事業としても、校内LANの整備に予算があてられている。また、学校に散在しているネットワーク機器をかき集めて安価な校内LANを実現した事例もある。さらに、地域のボランティアを組織して手づくりの校内LANを敷設する「ネットデイ」の市民運動も活発になっている。

 地域住民の手によって整備された学校のインターネット環境が「開かれた学校づくり」の一環で地域住民に開放され、学校がインターネットの世界へつながる地域の拠点の役割を担っていくことを期待したい。地域間の情報格差の解消にも役立つ学校の新しい機能である。学校の先生方に今以上の負担をかけることなく、放課後や夜間、あるいは週末の学校をPTAや地域のNPOなどに開放し、せっかくのインターネット環境を共有するというアイディアはいかがであろうか。


インターネットは授業を変えるか

 話を授業づくりに戻そう。インターネットの普及に伴い、さまざまな実践報告を目にするようになった。調べ学習の一環としてインターネットで情報収集させる授業。他の学校、地域、あるいは海外の子どもたちと情報を交換し交流を深める授業。あるいは、自分たちの学習成果をインターネット上に公開し世界を相手に発表する授業。さらに、特定のテーマで実験を同時に行って地域差を報告する実践や、世界的なプロジェクトにインターネット経由で参画し科学者のデータ収集の一翼を担うというスケールの大きい実践もある。

 これらの授業に参加することによって、子どもたちはインターネットのすごさや怖さを知る。また、インターネットという道具を用いることによってできるさまざまな事柄を体験し、将来の「インターネットユーザー」になるための基礎も習得できたであろう。新しい授業ということでマスメディアにも取り上げられ注目されることを通して、時代の最先端にいる自分たちを誇らしく思ったこともあったろう。

 先生方にとっても、インターネットを用いた授業実践の可能性に触れ、同時にインターネット授業を行うノウハウを身につけ、新しい時代にふさわしい教師としての自信もつけられたことだろう。表には出ない苦労もさまざまあったろうし、そこから得たものも少なくなかっただろう。経験を積み重ねたリーダー達には、今後もさらに可能性を広げる工夫を重ねて欲しいし、また、これから試みる先生方には、先達たちのノウハウを参考にしながら、新しい境地を切り開いていく意欲を持って欲しいと思う。なにしろ、子どもたちはインターネットを使った授業が好きなのだから。

 一方でとても気になるのは、インターネットを利用した授業と、そうでない授業の格差である。インターネットは毎時間利用されているわけではないし、そうなる必要もない。インターネット授業が楽しければ楽しいほど、その他の授業が今まで通りであるとすれば、そこに大きな落差が生まれることになる。インターネット教室に行って授業をするときは環境も変わり、普段の授業とは何かが違うのではないかとの期待感も高まる。実際に楽しい授業が展開され、子どもたちはますますインターネットが好きになる。その一方で、教室に戻ると、今まで通りの授業の世界に引き戻される。夢からさめて現実に戻る、という感覚でなければ救われるのだが、実際はどうであろうか。

 これまでにも、さまざまなメディアが学校にもたらされ、授業に活用されてきた。しかし、それらの多くは「特別なもの」として珍重され、「いつもとは違うんだ」という位置づけが与えられ、通常の授業と対峙した形で導入されてきた。もしも、文部省が目指しているような環境整備が進み、特別教室に移動せずにいつもの教室でインターネットが利用できるようになったときに、インターネットは日常的に活用されるのだろうか。それとも、特別なときのみにインターネットが用いられて、それ以外の時間は「ふつう」の授業がこれまで通りに展開されるのだろうか。

 もしも、インターネットが教室に入ることによって授業が変化するとすれば、その変化は不可逆的なものになるはずである。インターネットが入ることで、授業が変わってしまい、今まで通りの授業をやろうとしてもできなくなる。子どもたちの学ぶ姿勢、学ぶ力、学び方が変質し、今まで通りの授業では満足しなくなる。あるいは、今までのようにていねいに、手取り足取り教えてあげる必要がなくなってしまう。自分でどんどん学んでいけるたくましさが育って、自分で問題を見つけ、情報を集め、自分なりに解釈し、「先生、これをどう思う?」などと聞いてくる。授業が変わり子どもが変わるとすれば、インターネットが特別視されることもなくなるはずである。


テレビは授業を変えなかった

 時代を少しさかのぼり、インターネットではなくテレビが教室に来た頃のことに思いを馳せてみよう。教育番組をたとえば小学校の道徳や音楽の時間、あるいは中学校の理科や社会科で視聴した思い出を持っている人も多いと思う。当時のテレビは、今のインターネットのように、時代の最先端を行く花形メディアであった。時代の最先端にあって、番組を制作しているスタッフもまた、一流のジャーナリストであった。全国の教室向けに、一流のスタッフが最新の情報を駆使して番組を送り届けていた。そんな番組を各教室に備え付けられたテレビで、予算を気にすることなくいつでも視聴することができたのである。今のインターネット環境よりは恵まれていたと言ってよい。

 当時のテレビは録画するVTRもなく、生放送で利用していた。したがって、授業の時間割を放送に合わせなければならないという不便があったものの、かなりの高利用率であった。一部の限られた先生方が使うというよりは、日常的に普通の授業で、普通の先生によって使われていたのである。そこで何が起きたていたのかを知ることは、今後のインターネット授業を占う意味で、興味深い。何が起きていたのかと言えば、教師が子どもの前で、学ぶ側に立たされたのである。テレビは生放送だったから、その内容を教師があらかじめ知るすべはない。指導要領準拠といっても(教科書準拠ではなく指導要領準拠であるからこそ)、一流のジャーナリストが作っている番組ゆえに、教師が知らないような新鮮な情報が多く盛り込まれてくる。それを、教室で子どもたちと一緒に、教師は初めて知らされる羽目に陥ったのである。

 予習ができない状態で、子どもたちと同時に新しい情報に触れても、教師としてそれにどう対処すればよいかをわきまえていれば何も慌てることはない。しかし、多くの教師は、その事態を歓迎しなかった。テレビから飛び込んでくる現在進行形の情報を学びながら次の授業をどう展開していくかを同時進行的に考えていくという緊張感、スリル、あるいは、腕の見せどころ。この変化を歓迎した教師は少数派であった。

 インターネットを活用した授業を展開する中で、あらかじめ下調べをしておこうと試みたり、情報収集の範囲をいわば「教師のお墨付き」の情報源に限定しようとする傾向は、今も昔も変わらないのだろうか。インターネットが教室に来たとして、それを子どもに自由に使わせる度胸と拡散する情報を子ども一人ひとりの学びにつなげられる力量を身につけられる教師は少数派に留まるのだろうか。

 多くの教師の抵抗にあって、また、利用率が高まれば高まるほど、教師にとってより安全で不安感が少ない番組を作らざるを得なくなったと、番組制作者は当時を振り返って語る。録画利用が増えて、教師の都合がよい番組だけを(しかも一部を切り取って)利用できるようになって、放送利用の緊張感はなくなってしまった。放送を利用することで教師の発想を超えた厚みがある授業をつくるチャンスも、教師の柔軟性が鍛えられていくことも、同時に少なくなっていった。

 知識の量でなく、新しい情報に出会ったときの対処の仕方で子どもをリードする教師。授業で学んでいることが、現実の世界の出来事とどのようにつながっているかが見える授業。上から教える教師から、ともに学びをリードしていく教師への変化。そういう放送教育推進者の思惑は、普段の授業を変革させるまでのインパクトを与えることなく時代の波に飲み込まれていくことになる。教育テレビは授業を根本から変えることなく、昔からの授業のやり方の中に組み入れられたが、さて、果たしてインターネットは授業を根本から変えるのだろうか。それとも、今までの授業の中に組み入れられるだけになるのだろうか。


おわりに:インターネット授業で何を目指すか

 インターネットが教室まで来る日は近い。この強力な道具を、ぜひとも、授業の常識を変えていくという目標に向かって活用してもらいたい。そのためには、「情報活用の実践力」というゴールがいったい何かを常に考え続ける必要がある。目標を忘れた瞬間から、インターネットで教育の情報化を促進するとか、教育の情報化を通して授業を変え、学校を変え、子どもたちを変えることも、忘れ去られてしまうだろう。

 情報活用の実践力とは、パソコンやインターネットが操作できるようになることだけを意味しない。「機器活用の実践力」ではなく、情報活用なのだから。情報活用の実践力を育てるためには、これまでのように教師が噛み砕いて消化しやすいように準備したものを食べさせてたくさん栄養をつけてやろうとする授業ではなく、多少歯ごたえのあるものを与えて子どもに咀嚼(そしゃく)力をつけるような授業が求められている。知らない土地を旅したときに、真っ先に日本食レストランを探すような大人になるのではなく、現地の文化に率先して触れるために少しは冒険をするような好奇心旺盛な子どもを育てる。ときに危ない目に遭遇しながらも、ときに腹痛に苦しみながらも、旅先での身の処し方を体得していけるような、たくましく生きる力と行動 力を備えた子どもを育てる。そんなことまでを視野に入れた授業づくりを目指して欲しい。

 教師の説明をただ黙って聞いている時間を漫然と過ごすのではなく、自分の学びを自分で進めていくことを授業の中心に据える。そこでは、常に、自分は何を知らないのか・知りたいのか、どうやって調べればよいのか、どこまで進んだのか・計画変更は必要か、何ができたのか・何をあきらめるのかといったプロジェクト遂行に関することを自問自答していくことになる。子どもたちが、自らの努力によって何を学んだのか、学びの成果を次にどう生かすかを考え、一人ひとりが学びの主人公になっていく。そんな授業をつくるために、インターネットや他のメディアをどう使っていったらよいかを考えながら、授業を進めていって欲しい。情報活用の実践力の源は授業実践力であり、教師にも情報活用の実践力が求められているのである。


参考文献


鈴木克明(1999)「アメリカにおける情報教育の動向」(海外の情報教育の現場から)『IT-Education』第2号、 21-24

鈴木克明(2000)「教員研修に情報教育の未来を占う」『教育と情報』(特集:情報教育の未来)2000年4月号(No.505)、8-12