鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



序 章 助っ人としての放送



■メッセージ■
放送を使うか使わないか、どう使うかを決めるのは教師であるから、放送の雇い主は一人ひとりの教師である。


1 放送番組を使わないのは「もったいない」〜助っ人としての放送〜
2 「助っ人」の存在をどう生かすか〜ライバルとしての放送〜
3 この講座から何を得るか〜教師としての力量をつける放送教育〜


■チェックポイント■
1 自分がふだんの授業で使う「助っ人」には何があるか?それらを、毎回使うモノ、頻繁に使うモノ、たまには使うモノ、に分けてすべて列挙し、使いこなしていると思うモノに○をつける。
 毎回使うモノ
( )          ( )          ( )          
( )          ( )          ( )          
 頻繁に使うモノ
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( )          ( )          ( )          
 たまには使うモノ
( )          ( )          ( )          
( )          ( )          ( )          

2 自分はこの講座の対象となる「若い先生」か?  はい・いいえ
その理由は? 

3 教師としての自分に「ライバル」と呼べる人がいるか?  はい・いいえ


■メモ■
(本文を読む前に、チェックをしてみての感想などを書き残しておいてください)


1 放送番組を使わないのは「もったいない」〜助っ人としての放送〜

授業で勝負するために、自分の授業を少しでも〈マシ〉なものにするために、使えるモノは何でも使う。これが筆者の信条である。大学で教師の卵である学生たちに接するとき「ぜひそういう教師になって欲しい」と願うことであり、また大学という教育現場で教鞭をとるときに自らに言い聞かせていることでもある。日本には放送番組があふれている。多額の費用をかけて専門のスタッフが自分の教えようとしている内容について吟味し、アイディアを練り、手間暇かけて番組を制作し、それを無償で毎日教室に届けてくれている。それを使わないのはもったいない、と思う。

今の世の中、教師がその気にさえなれば、授業を少しでもよいものにするための材料を、ありとあらゆる形で、いろいろ手にいれることができる。自分の声だけを頼りに(後に黒板とチョークと教科書も用いて)授業をしなければならなかった「古きよき」時代と違って、情報があふれ、選択肢が増えるばかりの現代は、まさに「情報の時代」である。いろんなことができる分だけ、現代の教師には天性の才能に恵まれていなくても、自分の授業をよくしていく可能性が与えられている。授業に使える「助っ人」はいくらでもいる。もちろん「放送番組」もそのひとつである。

使える「助っ人」の存在を無視して自分の殻に閉じこもっている姿は、時代に逆行するものだ。今の自分におおよそ満足しながらでも、さらなるものを求めるのは「若者」の態度であり、「若者」を相手に仕事をしている教師は、いつまでもその態度を忘れない方がよい。筆者が語りかける「若い先生」とは、そんな先生方である。

2 「助っ人」の存在をどう生かすか〜ライバルとしての放送〜

「助っ人」の役割は、それを雇う人間が決める。放送を使うも使わないも、またどのように使うかも教師各自が決めるわけだから、放送の雇い主は教師であるといっていい。放送の存在をどう生かすかは、その意味で教師に委ねられている。放送を生かすも殺すもあなた次第、である。

放送を生かす方法を考えるときには、自分に教師としての力量をつけるために生かすにはどうしたらよいかを考えたい。それには、放送を自分のライバルと見なすのがよい。冒頭で述べたように、放送番組はプロの集団によって手間暇かけて送り出されている。的確な内容選択と斬新な切り口、新鮮で明快な映像とプロの語り、魅了して離さない画面展開。それはライバルとして不足のない、手怖い相手である。ライバルとの切瑳琢磨により、自分に力をつけていく。言いかえれば、放送は「人間教師を生かすために」存在していると考え、放送をどう使っていくのが自分の存在を生かす道なのかを模索するとよい。放送の存在を生かせるようになったならば、それは教師としての自分にそれだけの力量がついたことにほかならない。

現代の、そしてこれからの教師には、授業に使用可能な選択肢が豊富な複雑さの中で最善手を組み立てていく高度な力量が要求されている。情報活用能力の育成が叫ばれているが、それは教師にとって、子どもたちにだけ期待していればそれですむ他人事ではない。今教師が授業を組み立てるのに最も必要な力量は情報活用能力にほかならない。「助っ人」はいくらでもいるが「助っ人」が増えれば増えるほど、使う側には「助っ人」の多様さに振り回されない力量が求められるからだ。

3 本書から何を得るか〜教師としての力量をつける放送教育〜

本書におつきあいいただく方には、筆者の立場に賛成するか反対であるかは別としても、次に示す筆者の立場が何を意味するのかおわかりいただけるよう全力を尽くしたい。次の二つの段落に書いてあることの意味がすべてわかる人は、本書を読んでも時間の無駄となることをあらかじめお断りしておく(つまり、本書を読む必要性を示す事前テスト 3 となる)。次章からは、このような筆者の立場を、放送番組を「助っ人」として使いこなす力量をつけるという観点から説明してみたい。

筆者は、経験の積み重ねのみに教師の力量を求める立場に反対し、中野照海のいうテクノロジーとして教育を見直す という意味の教育工学を志している。また、それは沼野一男が教育の中でも授業についての工学という意味でソフトウエアの教授工学と呼ぶものであり、教師が「成功的教育観」 ! を現実の教育現場の荒波の中で死守するための道具だてであるととらえる。水越敏行の言葉を借りれば「アクターとしての教師」よりも「デザイナーとしての教師」 " の側面に興味をもって、教師の使いこなす「包丁の種類とタイミング」を研究しているということになろう。

より具体的には、教育方法を工夫すれば子どもたちが勉強以外に使える時間を増やすことができるという様にキャロルの「時間モデル」 # を解釈し、授業で学習を手助けするためには授業構成が学習プロセスを反映していなければならないとするガニエの「授業事象」 & と「学習の条件」 %に傾倒し、もの珍しさを超えた学習意欲を実現するためにケラーの「ARCS動機づけモデル」 ' を研究している。ある一つの授業方法(例えば放送)を取り入れると他のすべての要素に影響を及ぼすという考え方「システムとしての授業」 ( を支持し、授業の在り方が学校の在り方まで変えてしまうという意味で、米国で盛んに提案されている「未来志向の学校像」 ) にも注目している。

最後に一言。筆者は大学の講義において、毎回受講生にコメントを求める。それは質問であっても、感想であっても、反論であってもよいことになっているが、コメントの提出をもって出席扱いとなる。学生には集中して講義を受けるために、筆者には手応えを感じ講義の評価を次に生かすために、大変役に立っている。各章の始めに設けられているチェックポイントはその章を読む前に確認してもらいたい項目なので、チェックポイントに記入しながら読み進めて欲しい。また、各章の終りには、チェックポイントに対する筆者のコメント(フィードバック)も用意した。読み進めるごとに、そのときに感じたことや疑問に思ったことなどを書き留めていただければ幸いである。

〈注〉
3 事前テストは、ある教材で学習する必要があるかどうかを判断するためのテスト。もし事前テストに合格したら、その教材で学ぶべきことを教材をやる前から身に付けていることが判明したことになり、時間の無駄を避けるために他の教材をやらせることになる。レディネステストは、前提条件を満たしているかどうかで教材使用の「前提となる基礎資格」を問うので合格した人だけが教材に進むが、反対に、事前テストは不合格の人のみが教材に進む。この段階で次の語が意味するところをすべて答えられる人には、筆者には教えられることは何もない。出来過ぎの人の時間の無駄を省くためのテスト。
本書第10章参照
! 本書第11章参照
" 本書第8章参照
# 本書第1章参照
& 本書第2章参照
% 本書第3章参照
' 本書第5、6章参照
( 本書第8章参照
) 本書第9章参照


■チェックポイントのチェック(フィードバック)■

1 毎回お世話になっている「自分の声」「黒板とチョーク」「教科書」なども立派な助っ人ですよ、お忘れなく。「放送番組」はリストに入ってますか(たまに使うモノ?)
2 筆者より(年齢的に)若い必要はありませんよ。ちなみに筆者は、NHK東京放送局からの教育専用チャンネルでのテレビ放送が始まった日の十日後に千葉県市川市で誕生しました(年齢はお調べください)。
3 自分の尻を叩き続けるためには、頭の上がらない師匠や張り合うことのできるライバルの存在はありがたいものですね。放送番組を制作しているスタッフは、あなたの教えようとしていることを別の切り口から真剣に考えている一流の放送人です。ライバルとして、不足はありません。また、同じ番組を別の角度からとらえて授業に位置付けている教師の実践例に触れることも、とてもいい刺激になるはずです。