鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



第9章 これからの学校とこれからの放送教育


■メッセージ■
これからの情報社会型の学校においては、子どもがどこからか探して録画してきた番組を筆頭に、さまざまな「教師にとって異質な」情報が授業で乱れ飛ぶような事態こそが歓迎される。


はじめに
1 情報活用能力を育てる学校
2 優秀な労働者を育てるこれまでの学校
3 工業社会型学校を支える教育放送
4 学校の情報技術モデル
5 放送教育がなしうること:学校を変える


■チェックポイント■

1 「情報活用能力」の育成が叫ばれています。あなたの授業のどんな点が子どもたちの情報活用能力を育てていると思いますか? あるいは、あなたの授業を受けても情報活用能力を身につけることはできませんか? それはどうしてですか?




2 日本の学校では、「優秀な労働者」を育てることに成功してきた。この意見をどう思いますか?



3 これからの時代において、学校放送の役割はどのようなものだと考えますか?


■メモ■
(本文を読む前に、チェックをしてみての感想などを書き残しておいてください)



はじめに 「これからの学校をどうするのか?」という問い

放送番組利用者の立場から「これからの放送教育」を考えるとき、「どのような番組を流してもらいたいのか」という問題設定よりも、「放送教育でこれからの学校をどんなふうに変えていくきっかけをつくるのか」という問題に興味をひかれる。「別に放送番組を使わなくても授業はできる」という安心感があるからだろうか。

学校へのコンピュータ導入や新しい指導要領の施行、指導要録の改訂など、さまざまな〈変化〉が主に学校の外側から学校を襲撃している。その底流には、叫ばれて久しい「情報化社会」の到来による社会の変化に学校が取り残されないように、また、「情報化社会」に必要な能力を培って子どもたちを世の中に送りだせるようにという願いがある。いわんや来たるべき社会の創造者として世の中の変化を先取りする人材を学校が育成し、社会を望ましい方向に変化させていくという学校教育本来の責務を自覚したとき、「これからの学校をどうするのか?」という大上段にふりかざした問いが気にかかる。

放送教育の歴史は、もともと「教育の現状を問い直す」営みとしてとらえることができる。放送教育は、明治以来の伝統的な学校教育にカウンターパンチを与えようとした学校教育改革運動としての性格を持っていたと指摘する研究者も多い 。しからばしばらくの間、教育実践の雑踏を離れて、少し遠い未来のことを考えてみることにおつきあい願いたい。

1 情報活用能力を育てる学校

新しい指導要領によると、これからの学校で耕すべき力の一つは「情報活用能力」であるという % 。それは、大量の情報をすばやく学習する情報処理の力ではなく、「情報を自ら主体的に探し、加工し、つくりだす力」という意味をもつそうだ。もしも学校がもともと社会に出るために必要な知識を得るところであり、情報を提供されるところだとするならば、本当にそのような力を育てることができるのであろうか。「学校で得た基礎知識をもとに、あとは自分で情報活用をすればよい。まずは基礎基本をしっかり身につけることが肝要である。」といった反応も無視できまい。

確かに、本気で「情報活用能力」を育てようと考えるならば、例えば放送番組が直接的に「情報を提供すること」を控えなければならないことになる。しかし、何らかの情報を提供しないでは放送番組は成立しない。とんだ自己矛盾である。視聴するだけで「情報活用能力」が育つ放送番組などありえない。提供されてしまった情報を自ら探しだすことはできないからである。そういったら言い過ぎであろうか。

「情報を提供すること」と「情報活用能力」を育てることとの矛盾は、何も放送番組だけにとどまらない。この矛盾は、現在の学校教育全体が抱える矛盾でもある。水越敏行は、その著書『メディアを生かす先生』の中で授業展開のために教師は少なくとも二本の包丁をもたなければならないという比喩で教師主導型の授業のあり方に疑問を投げかけている。すなわち、プロの料理人が調理する材料に応じて数々の包丁を使い分けるように、「一斉授業で、あるまとまった知識を伝達して理解させる場合の包丁」とは別に、「生徒が調べているところを回っていって、その生徒に的確な調べ方や学習のしかたを指示するときの包丁」をもつ必要がある。情報活用能力の育成につながる指導法はむしろこの(あまり使われない)二本目の包丁のことではないか、という指摘である " 。

もしも、これまでの放送教育がこのたとえでいう一本目の包丁の代役として用いられてきたとすれば、それによって「情報活用能力」の育成は望めないし、また学校教育のあり方そのものに疑問を投げかけることにもならない。矛盾にさらされているのは、情報の送り手が教師であれ放送番組であれ「権威ある情報源」であって、それを整然と受け取る「受け手」として子どもたちをみなすという類の学校観である。すなわち、もし本気で「情報活用能力」を育てたいと考えるならば、今の学校そのもののあり方を見直すことを避けることはできない。「情報の伝達」「基礎知識の習得」が学校の本務であるとするならば、それと同時に「情報活用能力」を育てることは至難の技であろう。あるいは本当に問われているのは、二本の包丁のバランスをどうするかということなのかもしれない。

2 優秀な労働者を育てるこれまでの学校

なぜ学校が今あるような「知識伝達」を重視することになったかの理由をその時代背景に求める社会学者のアプローチには説得力がある。『第三の波』であまりにも有名なアルビン・トフラーによると、現在の学校は産業革命(第二の波)の産物であり、学校のあり方には工場労働者の養成という要求が反映されているという。学校では、基礎的な読み書き算盤を教えると同時に、「その裏にははるかに大切な裏のカリキュラムが隠されていた。内容は三つで、今日でも産業主義の国では守られている。それは、時間励行と従順と機械的な反復作業である。…中略…第二の波が何世代もの若者を電気機械技術と流れ作業の要求する従順で集団的な人間に訓練していったことは否定できない。 # 」

確かにこれまでの日本の学校から「優秀な労働者」が育てられ、それが今日の日本の繁栄の基礎を築いてきたという指摘には反論しにくい。しかし、そのことがこれからもこのままでいいという論拠にはなりづらい。なぜならば、(また社会学者の説くところによると)時代背景が変化し、社会が学校に要求するもの、もしくは学校が社会に貢献できることが以前と同じではないからである。本章の冒頭に述べた学校に対する「外圧」とは、まさにこの社会の変化にほかならない。その「外圧」に対する学校がなすべきことの一つが「情報活用能力」の育成という課題としてとらえられているのである。

トフラーが指摘した農業革命(第一の波)、産業革命(第二の波)、情報革命(第三の波)という人類にとっての三つの変革期とその後の農業社会、工業社会、情報社会にあてはめて考えると、放送はどこに位置づけるのが妥当なメディアなのだろうか。情報化時代の到来はテレビと共にやってきたと考えられているので、放送は情報社会のメディアとみなすのが自然だろう。しかし他方で、放送というメディアは、第二の波の社会の特徴がきわだつ「工業社会型メディア」でもある。トフラーによれば、産業革命以降の工業型社会は、「規格化」「同時化」「極大化」「分業化」「集中化」「中央集権化」の六つの原則に従って発展してきた。放送もまた、それらの第二の波の原則に添った形で、新鮮な情報を専門家の手によって中央から一斉に全国に向けて提供してきた。これが放送のもつメディアとしての元来の時代的な特性である。

現在の学校制度もまた、産業従事者の基礎的な共通文化基盤をつくるのにふさわしい形で整備された工業型のシステムである、とトフラーは言う。上述の六つの原則が現在の学校によくあてはまることからみても「なるほどそうか」と思わざるを得ない。最近では校則(規格化)の見直しも取りざたされてはいるが、学校にみんなが集まって(集中化)、中央で定められたカリキュラムに基づいて(中央集権化)、各専門分野の教師から(分業化)、全員が一斉に同じことを学んでいる(同時化)。この学校の姿は久しく変わってはいない。

3 工業社会型学校を支える教育放送

放送の教育利用も、「情報の広域伝達」という特性をいかして、学校の役割を補助するために推進されてきた面がある。つまり、工業社会型メディアとしての特性は、それを意識するしないにかかわらず、放送教育の底流に存在する。世界的に見ても国の教育基盤が整備される途上では、「情報伝達手段」として不可欠な位置を占め、読み書き等の基礎基本を普及させるために重要な役割を果たしてきている。先進諸国においても、新しい領域や変わりつつある内容を教えるときに、あるいは専門の教師が得られない高度な内容を扱う手段として、情報伝達メディアとしての役割を十分に担えるメディアであることは間違いない。

もしも、全国の学校で一斉に子どもたちが同じ教育番組を視聴し、そこから流されてくる情報を懸命に受け取る作業をしているとするならば、それはまさに「工業社会型の放送利用」の姿であろう。ビデオに録画してカリキュラムの都合の良い時点でそれを行ったとしても、やはり同じことである。全国の学校で同じ教科書を使って同じカリキュラムで基礎基本の知識技能を伝達している「工業社会型の学校」の姿と、実によく整合性がとれているではないか。

放送教育の転換期である、放送教育に新しい息吹を、と叫ばれている。それはある意味で、コンピュータなどのより新しいメディアとの戦いなのかもしれない。しかし他方で、時代の変化が学校そのものの変革を迫っていることのあらわれでもある。放送のメディア特性を生かした授業をすると言うときに、時代背景からの放送の意味も問うてみたい。「情報の広域伝達」以上の意味がそこには見いだし得るはずだ。

4 学校改革の動きと学校の情報技術モデル

アメリカ合衆国では、ブッシュ政権のもとで始められた「西暦二千年のアメリカ」プロジェクトを皮切りに、今学校改革の嵐が吹き荒れている。これからの情報技術社会における学校のあり方を具体的に提案し、それを試行するプロジェクトを連邦政府が公募し、選定の上莫大な研究資金を与えるという画期的なアナウンスをしてから、各州政府も独自に同様なプロジェクトを支援し始めた。これによって、教育工学界(アメリカでは放送教育の研究もこの中に含まれる)は特に活気づいてきた。今の学校教育の現状を何とかするとしたら、その担い手は我々であるという自覚に燃えてのことである。

フロリダ州の学校改革プロジェクトを代表するフロリダ州立大学のブランソン(R. K. Branson)は、学校の仕組みそのものを変えていかなければこれ以上の向上は望めないという立場をとる研究者の一人である。ブランソンによれば、現在の学校では、教師も管理職も行政職も、各自の能力の限界まで努力しているにもかかわらず、問題が山積している。これは、長年良く機能してきた学校の仕組みが社会の変化とともに「時代遅れ」になった結果であり、現在の仕組みのままで学校が達成可能な成果のうち九七%はすでに達成してしまっている、という主旨の「上限到達(アッパーリミット)仮説」を主張している $ 。

ブランソンは情報技術の学校への単なる導入に反対の立場をとり、つぎのような問題を投げかける。「コンピュータ」を「放送」に読み換えると、大いに参考になる。「もし『先生方に教室でコンピュータを使ってもらうにはどうしたらよいだろうか?』ということを問い続けても、あまり多くの進歩は期待できない。『情報技術を教育の抜本的な向上に役立たせるにはどうしたらよいのか?』を問うべきである。その際、現在の教師による伝達モデルを絶対視しているうちは発展の望みは薄い。(十頁)」

ブランソンが提案する新しい学校の仕組みは、学校の情報技術モデルである(図IX-1参照)。現在の学校モデルで中心的な「情報コントロールタワー」としての教師は姿を消し、かわりに情報技術で実現した「知識の貯蔵庫(データベース)」とコンピュータ上に実現した種々の「専門家(エキスパート)システム」を子どもと教師が取り囲んでいる姿が描かれている。教師によって設定された問題をめぐって、子どもたちは自分に必要な情報を「専門家」からアドバイスを受けたり「貯蔵庫」から自分であるいは仲間と探りながら、加工し、自分たちなりの情報をつくりだしていく。そこでは、ちょうど水越が二番目の包丁として位置づけるような、「情報活用能力」の育成につながるような、活動的な授業が主として営めるような学校が描かれているのではないか。


図IX-1ブランソンが提案する学校の情報技術モデル


ブランソンのモデルは夢物語かもしれない。特に文化的背景を考えると、日本ではそんなに急に実現しそうもない。しかしながら、ブランソンの次の主張は、注目に値する。もしも放送を含む情報技術で教師の手助けをしようと考えた場合に、何を肩代わりするのがよいのかを示唆しているからである。「情報技術モデルの学校では、機械システムからまず学ぶ経験を可能な限り子どもたちにもたせる。教師は教科内容の情報提供を反復的に繰り返すためではなく、例外や問題点に対処するために待機する。黒板とチョークを使って、年間を通して一日中講義することを強いるやり方は、教師の創造力を最大限に生かしている姿とは思えない。」

5 放送教育がなしうること:学校を変える

放送教育は、その黎明期において工業社会型のメディアとして情報の広範囲伝達、普及を志向していたし、今でもその特性は生かされるべきものである。例えばアメリカでは、各学校での教員の守備範囲を越えた多様なカリキュラムを進度の異なる子どもたち全員に保証するために、地域の放送局から流す放送番組を基幹にしてスクーリングを組み合わせた授業を展開する試みが報告されている。伝達するものの質を高め、多様性を増すことで、視聴する側が必要なときに必要なものを選択して受けられる状況を維持し、教育の裾野を広げたいものである。

より多様性をおしすすめて、これからの放送教育においては、番組を選択する「視聴する側」には教師だけではなく子どもたちを据えたい。そのためには、図書館の利用法を教えるように、放送番組のビデオライブラリを整備して、その利用法を教える必要があろう(将来的には、これがビデオ・オン・ディマンドの使い方になる)。また、変化する社会のより新しい情報に手を延ばすために、番組録画の方法、あるいは役に立ちそうな番組を選んで録画するための「番組表の見方」の訓練も必要になる。

放送教育の歴史は、ある意味で「異質なものを教室王国に取り込んできた」歴史であった。それは「教師にとって異質なもの」としての放送番組であった。この伝統もこれからの情報社会において踏襲されるべきものだと思う。なぜならば、これからの情報社会型の学校においては、子どもたちがどこからか探して録画してきた番組を筆頭に、さまざまな「教師にとって異質な」情報が授業で乱れ飛ぶような事態こそが歓迎されるからである。

その意味では、これからの学校に求められる最大のものは、教師自身の情報活用能力にほかならない。放送教育の研究を通じて、求められる情報社会型の学校を現実のものにするための推進力を、放送教育に携わる我々がまず、身につけていきたいものである。

〈注〉
詳細は、鈴木克明(一九九五)「学校教育改革運動としてのメディア教育〜放送教育とコンピュータ教育を例に〜」日本教育方法学会(編)『教育方法二四』明治図書に述べた。
% 文部省(一九九〇)『情報教育の手引』ぎょうせい
" 水越敏行(一九九〇)『メディアを生かす先生』 図書文化
# トフラー・A(一九八〇)『第三の波』 中公文庫、五〇〜五一頁
$ Branson, R. K. (1990, April). Issues in the design of schooling: Changing the paradigm. Educational Technology, 7-10.


■チェックポイントのチェック(解答)■

1 「情報活用能力」の育成が叫ばれています。叫ばれてはいますが、それを実現するのは、毎時間の授業の積み重ねです。日常の授業のどこかに、「情報活用能力」を育てる工夫が盛り込まれていないと、どんなすばらしい重点目標も単なる「スローガン」に終わってしまいます。日常の授業、ふだん着の授業をもう一度、点検したいものです。
2 「優秀な労働者」を育てることに成功してきたが、「優秀な市民」を育ててきたのか、という疑問が残ります。無意識に工業型の学校を支えてきていたかもしれないことを改めて自問して、さて何ができるかを考えたいものです。
3 学校教育を再点検し、新鮮な空気を送り込んできた「学校教育改革運動」としての伝統を踏襲したいものです。常に、これでいいのか、と問い続ける手段として位置づけたいものですね。