鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



第10章 テクノロジーとして学校教育を見直す


■メッセージ■
放送教育は放送メディアの利用についての研究分野であり、教育工学の一部としてとらえるべきだ。


はじめに
1 教育工学は教育の機械化か?〜ハードウェアの活用としての教育工学〜
2 教育工学は機械利用方法の研究か?〜ソフトウェアの活用としての教育工学〜
3 テクノロジーとしての教育工学
4 教育工学的思考の特徴〜教育現象をシステムとしてとらえる〜
  ⑴教育現象をシステムとしてとらえる〜システム的思考
  ⑵慣習に捕われた思考を排除する〜柔軟な思考〜
  ⑶研究の「現実離れ」を防ぐ〜問題解決志向〜
  ⑷名人芸の秘密を万人に共有する〜一般化への志向〜
  ⑸データをもって理論化する〜実証的、帰納的思考〜
5 見直すときに寄って立つ基盤:教育と訓練はどこが違うのか?

■チェックポイント■

1 テクノロジーという言葉から何を連想しますか?



2 放送教育と教育工学とはどんな関係だと思いますか?放送教育は教育工学の一部だという考え方をどう思いますか?


■メモ■
(本文を読む前に、チェックをしてみての感想などを書き残しておいてください)


はじめに 理由なき伝統継承を問う

ここまでの章では、教育と放送の関わりについて、またそれを具体化する役割を担う教師について、筆者の専門である教育工学、とりわけ授業設計論の立場から、参考になると思われる考え方を紹介してきた。この章では、教育工学の中でも、機械による教育を前提としない筆者の立場について述べてみたい & 。放送を授業に活用することで、日頃の授業実践全体を改めて問い直すきっかけとし、自らの授業実践を再検討し、よりよい選択肢を選んでいこうとする教育工学の立場、題して「テクノロジーとして学校教育を見直す」である。

1 教育工学は教育の機械化か?〜ハードウェアの活用としての教育工学

教育工学(Educational Technology; Instructional Technology " )は、科学技術の発達にともなって授業に使えるようになったさまざまなメディア(機械)の教育への応用と、その効果的な利用促進のための研究として発展してきた。これが、いわゆるハードウェアの活用としての視聴覚教育・教育工学である。一般的に、教育工学という言葉を耳にしたときに、工学=機械という置き換えがなされ、人間教育の否定、あるいは人間疎外というイメージがもたれるのは、ハードウェアの側面が印象深いためであろう。無論、ハードウェアの普及啓蒙という観点から教育工学の研究に従事している人も少ないわけではない。しかし、教育工学の研究がすべて、機械の売り込みに偏しているとうわけではない。

放送教育に携わる人が「自分は教育工学とは無縁である」という際に、同様の図式、すなわち放送教育=機械による画一的教育、教室教師の否定という連想を嫌う心理が働いているらしい。教育工学は効率化、詰め込み指向である一方、放送教育は感受性や批判的な態度を育成する人間教育である、という区分けをする。あの仲間に入るのはごめんこうむりたい、という気持ちもわからないではない。しかし、ご迷惑であろうが、筆者は放送教育をれっきとした教育工学の一分野とみなしいる。それは、放送というマスメディア(ハードウェア)を教育の一手段としてどう生かしていくのかを研究する分野だからである # 。

2 教育工学は機械利用方法の研究か?〜ソフトウェアの活用としての教育工学

さて、ハードウェアの活用という観点から新しい機械の教育利用を目指して、機械利用の優位性を立証しようとする研究が行われてきた。しかし、皮肉なことに、万能薬的な「ダントツ」メディアは存在しない、といういわば常識的な知見が研究を重ねるたびに繰り返し得られた。メディアを効果的に利用するためには、授業に関する理論的・基礎的研究の成果を踏まえる必要があるということが強調されるに至り、学習理論やコミュニケーション理論、経営学、人間工学などの、およそ授業に関連するあらゆる分野の研究成果を生かす道が模索されてきた。これが、いわゆるソフトウェア(関連研究成果)の活用としての教育工学である。ソフトウェアというとコンピュータのプログラムが連想されるが、ここでは、機械(ハードウェア)に対する「機械の活用方法、機械を動かす仕組み」という意味のソフトウェアを指す用語である。

運搬用トラックにたとえれば、ハードウェアの活用としての教育工学は、トラックの輸送能力や積載能力の向上についての研究である % 。新型トラックを開発したから、それを教育の分野に売り込む。しかしながら、トラックがいかに優れていても、行き先もわからずに走っているだけでは意味がない。何も載せないでトラックだけで走ってもしかたがない。トラックが新型に変わっても載せているものが変わらなければ、大きな変化は期待できない。

ハードウェア研究がトラック研究であるのに対して、ソフトウェアの活用としての教育工学は、「積み荷」の研究と言うことができる。材料の選定から仕入れ、貯蔵や積載の方法に至るまで、トラックに載せて運ぶものについて関心を寄せる。トラックの性能が向上しても、積み荷が的確に選ばれ処理されなければ運搬の使命を果たすことはできない。同じトラックで運ぶにしても、研究の結果として新材料が開発されたり、市場の情勢が変わったりすれば、積み荷に変更を加える必要が生じよう。

もちろん、トラックによって、運べる積み荷の種類が違ってくることもある。冷蔵運搬車がなければ、保冷宅配便が必要な魚介類などを気軽に送ることはできない。競馬馬を運ぶには、あるいはピアノの引越には、専用車が必要になる。同様に、メディアによって得意な分野や不得意な分野があることは、確かである。しかし、より大切なのはどちらかと考えれば、「何で運ぶか」よりも「何を運ぶか」にあることは明らかだ。メディアでなくメッセージの研究、放送特性よりは番組特性や番組利用方法に着目する必要性は、この点にある。

3 テクノロジーとしての教育工学

こうしてハードウェアとソフトウェア両面のテクノロジー(工学と訳されている)を教育にいかに応用するかを研究の関心として、教育工学は発展してきた。次々と技術革新の成果が提供され、授業実践に適応可能なさまざまな分野の研究成果によって、授業実施についての選択肢が増加の一途をたどることになる。放送教育ではそれをすべて「放送」というハードウェアに結び付けて考え、あらゆる挑戦をすべて放送で解決しようと試みてきた。視聴覚教育の分野ではOHPや一六ミリ映画であった。教育工学とて例外ではなかった。新しい方法論が登場するたびに、プログラム学習を支え、反応分析装置を支え、コンピュータ教育を支えてきた。

新しいものの可能性を探るのはそれ自体悪いことではない。むしろ、新しいものの肩を持つぐらいの気持ちで接しないと、可能性を開花させる前に伝統の名のもとに葬り去られてしまう可能性すらある。しかし、ある特定の方法論ですべての問題を解決しようとすることは、これだけ選択肢が多様に用意されている今日、無理が生じて当然ではないか。次々と登場する新しいものに目を奪われて古いものを顧みないとすれば、砂上に楼閣を築く行為を重ねることになる。

放送教育や視聴覚教育、あるいは教育工学が、いわゆる「テクノロジーによる」教育として発展をとげたことは事実である。しかし、それぞれの分野が独自性を主張し、ある特定のハードウェアや特定の利用方法論に固執するとすれば、これ以上の発展は望めない。多種多様なメディアや授業方法論を空から鳥のように眺めて、相対的な視点に立つことがとても重要な意味をもつ。

中野照海によれば、現在の教育工学は、教育過程そのものをテクノロジー(問題解決過程)としてとらえ直すという役割を担っているという 。特定のテクノロジー(ハードやソフト)を教育に応用するという面を「テクノロジーによる教育」と呼ぶ。一方で、これまでに研究開発されてきた授業の方法を見比べながら、現在行われている学校の教育、授業を振り返り、意識的に点検することも教育工学の重要な役割であると中野は指摘する。この教育工学の役割を、問題解決の手段を提供するというテクノロジーの語義から、「テクノロジーとしての教育」と呼んでいる。同じ教育工学の研究でも、主眼をある特定のハードの活用にも、ある特定の授業方法の応用にも置かない。より具体的には「授業設計論」という形をとる立場である。

何が放送教育で、何は放送教育ではないとか、視聴覚教育と放送教育はどこが違うのか、という類の議論は、筆者の立場からは全く無意味な議論である。なぜならば、ある特定のハードウェアがより広く使われるようになることが、関心事ではないからである。放送を使うことが目的ではなく、放送を手段として使って何かをなすことが目的であり、放送も他のどのハードウェアも、選択肢の一つにしか過ぎないと考えるからである。

それぞれの伝統を踏まえながらもすべてを選択肢として含み、教育の目的達成のためにどれをどう使うのが与えられた制約の中で最適かを意識的に探っていくことが重要である。水と油のものをあえて両方とも包み込み、時と場合に応じて水を使ったり油を使ったりする。悪く言えばご都合主義、良く言えば折衷主義である。この立場に「教育工学」という名前を冠することにはご賛同いただけないかもしれないが、中身については「それならば仲間に入れる」と感じていただけるだろうか。

4 教育工学的思考の特徴〜教育現象をシステムとしてとらえる

中野照海は、現在の教育工学の基本的視点として、表X-1に掲げる五つを挙げ、テクノロジーとしての教育工学という立場を説明している。この五つをもとに、テクノロジーとして学校教育を見直すとは何かを考えてみる。

表X-1.教育工学的思考の特徴(中野照海による)
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1、システム的思考(教育現象をシステムとしてとらえる)
2、柔軟な思考、または可能な多様性からの選択
         (慣習にとらわれた思考を排除する)
3、問題解決志向 (研究の「現実離れ」を防ぐ)
4、一般化への志向(名人芸の秘密を万人に共有する)
5、実証的、帰納的思考(データをもって理論化する)
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⑴教育現象をシステムとしてとらえる〜システム的思考

テクノロジーとして教育を見直す第一の視点は、授業その他の教育現象をシステムとしてとらえるということである。これまでの章の中でも何度か触れてきたが、改めていくつかの特徴を列挙してみよう。

①授業を授業にかかわる要素の関係で表す。要素が一つ変われば他の要素にも影響を与える。授業内容、方法、子ども、指導者などの要素同士は強く連結していると考える。よって、同じ授業は二度と再現できない。

②一時限の授業は単元の一部として一定の役割を担い、ある単元は教科の年間計画の中で一定の役割を担うという、多重構造をもつ。よって、常に一つ上の枠組み(これを上位システムという)での位置づけを意識して実践を積み重ねる。長期目標と実践との乖離を防ぐ。

③計画の善し悪しは、目的への到達貢献度によって判断される。まず目的を明らかにし、逆算的にさかのぼって計画を立てる(合目的的判断)。

④計画は手直しをしながら実行する。そのために、常に計画履行状況をモニター(評価)し、それをもとに修正する。この考え方の基礎には、最初から完璧を期待しない、試行錯誤で徐々に目標を達成するという前提がある(最初からうまくいくのなら出来具合を確かめる必要はない)。

⑵慣習に捕われた思考を排除する〜柔軟な思考

テクノロジーとして教育を問い直す教育工学的思考の第二の特徴は、慣習に捕われた思考の排除、即ち柔軟な思考の採用である。明治以来の伝統の中で培われたよい所も少なくないが、ただ「今までそうだったから」という理由だけで、伝統が容認され、新しいものが否定されるようでは問い直すという作業は不可能になる。まず、「当たり前」を疑ってかかる思考の柔軟性を重んじる。

しかし、古いものを否定して新しいものならば何でも歓迎するわけではない。むしろ、伝統だからという理由のみによってそれを盲目的に踏襲し、自分でやっていることの責任を回避する態度を否定するものである。今までのやり方を数ある選択肢の一つとしてとらえ、「他に方法はないのか」を常に問い続けていくのである。例えば放送をどう生かすかを本当に考えようとする場合、「放送なしの授業」を議論の出発点にし、放送以外のメディアも検討することによって初めて、「だから放送」といえる何かが浮かび上がってくる可能性が生まれる。この際、「だから放送」と言えることが何も浮かび上がってこない危険性も甘受する覚悟が必要である。

やった経験のないことはだれしもやりにくいし、「今までどおり」というのが一番安心であるし確実でもある。新しいことを提案するのは勇気が必要だ。「前例がないから」という断わりの理由をよく耳にする。より確実な方へより安全な方へと、攻撃よりも守備固めの発想になってしまいがちである。

そんな危険を犯しても「柔軟であること」がなぜ必要なのだろうか。それは、かなえたい夢があるからであり、今の自分の授業に満足していないからにほかならない。不満を持ちつつも現状維持を支持したとすれば、新しいことをやって失敗した時と同じように、何も新しいことをやらなかったことによる失敗の責任を問われることになることを忘れないようにしたい。世の中がめまぐるしく変わっている現在、今まで最善策であったものが、これからも最善策であり続ける保障はない。逆に、今まで不可能であったことが、今もなお不可能であるという保障もどこにもない。

⑶研究の「現実離れ」を防ぐ〜問題解決志向

第三の特徴は、現実の授業での問題を解決するために、実践者の判断材料となるような成果を模索する「問題解決志向」である。今の自分の授業に満足していない点があるとすれば、それをどう克服したらよいか。教師としてかなえたい夢があるとすれば、それにどう近づけばよいか。授業実践の日常にしっかりと根をおろし、その中から問題を拾いあげ、その解決に向けての方策を探る。「世の中一般の」問題を解決する研究というよりもむしろ、まず「自分自身の」問題に取り組む。

研究のための研究は、大義名分はどこからも文句のつけようがないことが多い。しかし、研究をやり終えた、責務を果たしたという事実以外に何も成果が残らないことがしばしばあるようだ。文句なしの研究。しかし、研究後の日常の授業には何ら変化が見られない。実践研究を行ったにもかかわらず、研究後の授業にその成果が直接反映されていないとすれば、その研究を行った教師にとって有益であったとは思えない。研究は年中行事でも消化試合でもない。明日の授業に少しでも役立つ研究を目指して、日頃の授業実践における悩みや疑問に基づいた実践者の発想を大切にしようとするのである。

⑷名人芸の秘密を万人に共有する〜一般化への志向

教育工学的思考の第四の特徴は、研究成果の共有を目指す、一般化への志向である。優れたベテラン教師の授業は、日本の教育の宝だ。しかし、他の教師がその実践に感銘を受けるのみでなく、そこから自分の実践に何らかの示唆を得、実際にその後の実践がよりよいものになっていかなければ宝の恩恵を受ける子どもが限られてしまう。また、自分の授業を振り返って今日の授業はとてもよかったと思えたとしても、その経験が次の授業に生かせなければ、偶発的なものに終始してしまう。他の教師と共有できないような財産では、自分が次の年度に別の子どもたちと向き合うときに、それを再びよみがえらせることができるかどうかも不安だ。再現可能性が高い状態にしておくこと、これが、教育工学でいう「一般化」もしくは「輸出可能性 ' 」である。

日本の学校ではとりわけ「自分独自の方法」、オリジナリティが尊重され、他の教師の開発した教材や計画した指導案を共有することの意義が軽視される傾向があるようだ。これは、大いなる無駄というものだ。例えばコンピュータ利用教材を開発するのに必要な時間が、授業一時間あたり百時間とも言われたことがある。それだけの労力を費やして教材をつくること自体は無駄ではない。作成者自身が学ぶことが少なくないからだ。しかし、一〇〇時間の手間暇をかけて教材をつくるのであれば、それを一〇〇人の教師で共有する義務を負っているぐらいに考えるべきだ。最初から自分だけしか使えない教材をつくって満足せず、他の教師にも使ってもらえるような教材づくりを目指すことが肝要だ $ 。

教職課程を履修中の学生から、こんな話を聞いたことがある。彼女は、ある教師から「一年に一度ぐらいは自分で納得のいく授業をやりたいものだし、それができれば立派なものだ」という主旨の話を聞いて、「残りの授業は一体どうなるのだろうか」と疑問に思ったそうである。それに対して筆者曰く、「真似したいと思う授業案に出会ったら、どんどん真似してよい。どんなに真似してもすっかり同じ授業にはならないので心配はいらない。教師仲間のアイディアを共有することでマシな授業の回数をふやしていくことが大切。自分で何もかも考え出そうとするな。真似から始めて、他人のアイディアを自分なりに組み合わせて使いこなせ。」彼女は、これで胸を撫でおろした。

⑸データをもって理論化する〜実証的、帰納的思考

教育工学的思考の第五の特徴は、「データで語る」ことである。この場合のデータには、観察記録、アンケート結果、テスト結果などさまざまな形が考えられるが、授業が子どもの学びを支援するという目的で営まれる以上は、子どもから得たデータがその中心となることは当然である。必ずしも数字だけでなく、子どもたちの感想、意見、作品なども授業を反省する貴重なデータである。授業の結果がすぐに印刷して配付され、「私たちの研究はこの点を巡ってのもので、それを確かめるためにこんなデータをとりました。この結果をどう解釈したらよいか議論したい」となれば、論点は明確だ。逆に、ブ厚い学習指導案で緻密な計画が示されたのにそれがどう実現したのか分からない時は、証拠が欲しいと強く思う。

授業の成果はすぐには現れない。長期的な子どもの変容こそが教育の目的なのだ。そんな反論が聞こえてきそうである。それならば、長期的に子どもの変容をとらえる研究を計画し、長年にわたって集めたデータをもとに授業研究をすべきで、データを集めない理由にはならない。研究課題の追究にそぐわない研究計画であったことを露呈するだけだ。千里の道も一歩から。一歩ずつの確かめが欲しい。

また、いくらデータを集めても子どもに与えた影響をすべて言い尽すことはできない、という反論もあろう。それは当然だ。学校での授業が子ども一人ひとりにどのような影響を与えているのか、何人にも計りきれるものではない。しかしこのことは、ねらったものがどの程度成功を収めたのかを調べる努力を怠る理由にはならない。研究課題が焦点化していないことを物語るだけである。

5 見直すときに寄って立つ基盤=教育

教育工学では、テクノロジーを教育に応用することに加えて、テクノロジー(問題解決過程)として学校教育を見直す視点を模索してきた。この営みを突き詰めていくと、学校というところは、どんな問題を解決する所なのか、という根本問題に達する。学校教育は何をなすべきか(目的)を不明確にしておいて、それをどうなすべきか(方法)は明確に提案できないからである。

学校にはさまざまな社会的機能がある。親を育児労働から開放し、生産労働に専念できる時間をつくる「託児機能」。国家や企業が求めている優秀な人材を広く集める「選抜機能」。社会にでて周りにあまり迷惑をかけない大人にしつけるための「社会化機能」。積極的にそれを目指すかどうかはともかくとして、学校教育に期待されている役割は色々ある。具体的に行う営みとしては、「授業」が中心となるわけだが、何を目指しての営みとしてそれを再点検し、見直していくかで、結論はずいぶん違ったものになるはずだ。

これまでの教育工学の成果から我々が提案できるモデルは、訓練のために(あるいは洗脳のために)用いることが容易なものだと思う。文字を覚えさせたり、科学に興味を持たせたり、環境問題に関心を持たせたり、論理的な手順を身に付けさせたり、すべてが学校教育で扱われる訓練である。しかし、それらの効率的な達成のみが学校教育の目的ではない。だからといって、それらをやらないで学校は成り立たないし、現実に文字が覚えられない子どもに頼まれたときに効果的に文字を覚える術を教えられないのも困る。教育工学、あるいは授業設計論を学ぶ当面の目標は、「訓練が効果的にできる教師になる」ことなのかもしれない。

「(灰谷)私達教師は子供にものを教える、子供に文字を教える、あるいは子供に数字を教える。しかし、ほんとうは文字の向こうにある人間を私達は教えているんだということ、共に考えているんだということを忘れてはならないわけです。 ! 」

テクノロジーとして学校教育を見直すという作業の中には、この灰谷の指摘に対する学校の「教育機能」をよりよくする手段としての教育工学の限界の認識と、新たな挑戦が含まれている ( 。

〈注〉
& 教育機器を使うことで何ができたら効果的であったとするのか、という点から筆者の立場を整理した次の論文も参照されたい。
・鈴木克明(一九九五)「教育機器の効果的な活用」『個性が育つ教育方法読本(教職研修総合特集 読本シリーズ一一七)』教育開発研究所、二一九〜二二二頁
" 沼野一男は、かねてからInstructional Technologyの訳語として「教授工学」をあて、教育工学の研究領域の中でも教育行財政などでなく授業に直接かかわるミクロな教授システムの改善に限定した中心的な下位領域と位置付けてきたが、一般には教育工学と教授工学が同義に用いられることも多い(東洋他(編)(一九七九)『新・教育の事典』平凡社、二三六頁、執筆担当沼野一男)。逆に、一九九四年にアメリカの教育コミュニケーション・工学会(AECT)が定めた定義では、それまでのEducational Technologyに変わってInstructional Technologyが教育工学の研究領域を示す言葉として用いられた(Seels, B. B., & Richey, R. C. (1994). Instructional technology: The definition and domains of the field. Association for Educational Communications and Technology, U.S.A.)。本書では、関心の中心は沼野の言う「教授工学」、つまり教師が日常的におこなう授業の改善にあるが、研究領域の名称としてより一般的な「教育工学」を用いている。
# 前出の沼野一男は、放送教育は視聴覚教育の一部であり、視聴覚教育は教授工学の一部であると捉えている。アメリカにおいては、教育コミュニケーション・工学会(AECT)の前身は、全米教育協会(NEA)の視聴覚教育局(DAVI)であり、学会や学会誌のの名称を変更して時代の流れに対応した経緯がある。一九九四年のAECTの定義は、次のとおりである(文献は前出のSeels & Richey)。「教育工学とは、学習の過程と資源についての設計、開発、運用、管理、ならびに評価に関する理論と実践である。」
% メディアをトラックとして捉える論法は、クラークの「メディアはいかなる条件下でも学習に影響しない」という主張で用いられ、論議を呼んだ(Clark, R. E. (1983). Reconsidering research on learning from media. Review of Educational Research, 53 (4), 445 - 459.)。その後の論争については、今栄国晴(一九九四)「教育メディアの有効性論争試論〜マルチメディア時代への展望〜」『教育メディア研究』第一巻第一号、三八〜四三頁に紹介されている。また、最近の学習は状況に埋め込まれて成立するという立場からは、学ぶべきものがトラックに乗せられて運ばれてくるという発想そのものを批判的に捉える動きもある(たとえば、今栄の前出論文、四一頁)。情報を運ぶだけでは学習が効果的に成立しないことは、ガニェの九教授事象を見ても明らかであり、トラックの比喩の限界は情報の「たれ流し」を連想させるところにあると言えよう。
中野照海編(一九七九)『教育学講座第六巻 教育工学』学習研究社
' 東洋(一九七六)「教育工学について」『日本教育工学雑誌』第一巻第一号、二頁
$ この点では、中学校の音速測定装置を含んだ自作コンピュータ教材を開発したときに、それが市内の中学校全校でつかえるように予め見通しをたてた川越教諭による研究が参考になる。詳細は、鈴木克明(一九九五)「中学校における教育研究の事例(第六章第二節)」水越・永岡(編)『学校の教育研究』ぎょうせい(新学校教育全集第二八巻)、一八三〜一九四頁
! 林竹二・灰谷健次郎(一九**)『対談、教えることと学ぶこと』小学館、一八八頁
( 鈴木克明(一九九四)「もう一つの授業設計」『AV−SCIENCE』十二〜十六頁


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1 テクノロジー=機械=人間疎外、という図式以外の考え方がおわかりいただけたでしょうか?今月のタイトル「テクノロジーとして学校教育を見直す」の意味は、納得のいくものでしたか?佐伯胖は、その著書『コンピュータと教育』(岩波新書黄三三二、一九八六年)のあとがきにおいて、「教育とは何だろうか、どうあるべきだろうかを考える中で、自然にコンピュータというべきもののあるべき姿がうきぼりになってくる(中略)。少なくとも私にとってはそうであった。(二二五頁)」と述べています。コンピュータのことをとことん知りたくて、その対局にある教育について考えてみた佐伯の結論です。筆者はその逆に、教育のことについて知りたいので、放送やコンピュータなどの人間以外のものを教育にどう使うことができるのかを考えたいと思っています。人間味がなく、冷たい機械を教育にどう使いこなしていけるのかを考えることで、人間である教師が何をなすべきかが見えてくることを期待しています。「少なくとも私にとってはそうであった。」と言える日を楽しみに。

2 放送教育の研究は、教育工学の重要な一部だと筆者は考えています。ご迷惑でしょうけど。放送というメディアにこだわりをお持ちになるのは結構だと思いますが(好きこそ物の上手なれといいますので)、柔軟性もお忘れなく。