件名:私の記憶の中の”学習体験”───事例と照らし合わせたeラーニングへの応用可能性の考察
作成者:Eさん
本章で提示されている事例(13-3-2:「インターネットと学問研究」)と、私の記憶の中にある大学における学習体験を照らし合わせながら、eラーニングへの応用の可能性について検討していきたいと思います。
1)提示された指定教科書あるいは参考図書を読む
[体験]
シラバスに示された学習目標を達成するために、その教科書が最善最良であるか、という検討はない。ただ、シラバスで示された「○○という本を買っておくように」という指示のみが、その教科書を今私が手にしている最大の理由である。
[事例を踏まえて]
「インターネットに関する入門書を(気に入った本で良いので)買ってくること」という宿題には衝撃を受けた。学んでほしい主題が明確であれば、それを学ぶために必要な教科書が他に存在しない場合を除いては、各自が自分にマッチしていると判断でくるものを自由に選ぶ機会があっても良いはずである。
[e応用の可能性:学習手段の多様性・融通性の許容(目標準拠型の採用)]
コースの中に存在する動画やアニメーション、テキストだけを唯一の学習手段とするのではなく、関連する書籍やWebサイトを示して、「別ルート」でゴールに辿り着いてもよい事を明示する。もちろん、間違った・的外れなコース選択をしないように配慮することは重要である。
2)講義室で教員の話を聞き、その話や板書をノートにまとめる
[体験]
抑揚のない没個性的な説明、教科書を読めば書いてある事の羅列、書き殴られた板書(板書だけを控えても後から何のことだったか思い出せず、ストレスがたまる)。しかし、教室には居る。途中退出を教員は反発的態度と捉え(内省材料とはしない)、何学部の誰であるかが分かると成績に響きかねない。恭順の姿勢がリスクを回避する。
[事例を踏まえて]
「教員は教壇に立てばそれで役割を全うしているのではない」という事を示している。講義は目的ではなく手段なのだから、目的(学習目標)を達成するために、講義以外の選択肢(宿題をやるための手助けの時間とする)を採ることのほうが建設的な判断と言える場面もある。教員の仕事は「喋る事」ではなく「学びのきっかけを与えること」である。
教室だけが学習に唯一適した環境ではない。この部屋でも、外でも、どこでやってもよい(これは「メディア論」の場合であるが)ように、目的準拠型であれば教室以外であろうと、学びがきちんとできていれば良いのである。
[e応用の可能性:e化そのものが目的準拠型へのシフトを支える?]
大事なのは学んだ場所ではなく、学んだ中身である。但し、単に動画やCGを垂れ流すだけでは、「垂れ流し」の場が教室からデジタルに変わっただけになるので注意。学習制御を駆使するなどして、漫然と聞くだけではクリアできない「ほどよい緊張感」を与えるeラーニングが良い。
3)期末試験あるいはレポートを提出する
[体験]
講義を聴いたり、教科書を読んだりして、自分なりに解釈してきたことは果たして正しいのか。今一つ自信がないままに、期末試験の日を迎える事になった。それなりに筆は走るほうなので、論述試験自体に抵抗感はないし、今までも“理解しているように見せる”ことで乗り切ってきた。でも、それでいいんだろうか。
[事例を踏まえて]
インターネットについての常識問題を解答させ、どこが不正解なのかをその場で告げる確認小テストの存在は、実は学生はありがたいはずである。講義の最大の問題は、座って聞いていれば分かったような安心感を与えてしまう事にあると思う。
[e応用の可能性:失敗から学ばせる機会]
何が習得できているか/いないかを学習者が認識できる仕組みを取り入れる事。チャンクごとに確認テストを設けたり、ディスカッションで自分の解釈を示すなどの機会を用意させる事。
件名: Re:私の記憶の中の”学習体験”───事例と照らし合わせたeラーニングへの応用可能性の考察
作成者:Kさん
Eさん、こんばんは。
>教員の仕事は「喋る事」ではなく「学びのきっかけを与えること」である。
この考えを持つ先生に教えられる生徒は、幸せでしょうね、と言わざるおえないくらい、これまでの私の経験では、稀な存在ですね(ゼロではないにしても)。
特に、学校という場所はその傾向が顕著であるように思います。
社会人だとまた、一味違いますよね。(と私は、個人的な経験から思っています。)
社会人になると、自分よりも年上の人に教えることも多々あるわけで、
その中ではやはり、いかにお互いに刺激的な講師であり生徒であるかが、学びの質を変えるような気がしました。
大人になるとますます、「人から教わることが嫌い」という性質?の人も出てくるように思います。
そういう人には、eラーニングって、持ってこいのメディアですね。
期末試験のレポート問題について。
学習達成?としては、かなり高レベルな理解を求められる課題ですよね。
自分なりに理解し、租借していないと書けませんから。。。
そこでEさんがおっしゃるように、「確認テスト」の存在。
実は、理解度を知るためのテストなのだから、ありがたいはずだ、
には納得です。
じゃあ、なぜ疎まれるのか。
やはり、テスト=点数=評価に響く、からでしょうか。
私は確認テストのありがたみを、このSCCで何度か経験した確認テストで知りました(何度もチャレンジできる、本当の確認テストでしたので。)
つらつらと思いついたことを、すいません。
K
件名: Re:私の記憶の中の”学習体験”───事例と照らし合わせたeラーニングへの応用可能性の考察
作成者: Jさん
Eさん,こんにちは, コメントいたします.
教科書を自分で選んで買うというのは衝撃的ですね.
大学では,いまだにろくに使用しない図書だったり,
自著の図書を売ろうとシラバスに載せる先生がいるのに・・・
本科目のあとがき「どうやって授業をするかより前に,何を学ばせるのか,それをなぜ学ばせるのを検討せよ」は,まさにID的な部分だと思うのですが,
それをふまえて,では,実際にどうやって授業を行うのかに関しては,非常に難しいと感じました.いかに,学習者を主体的な姿勢に持って行くか・・だとは思うのですが.
ここらへんでeのメリットを生かすんでしょうね.
近年,ブレンド型のeラーニングがはやっているように思いますが,正しい方向のように思います.
乱文失礼します.