『視聴覚教育』1989年12月号( 第43巻12号)、24 - 27(特集連載31教育変革の時代と視聴覚教育−その原点を探る−)」



   雑誌「視聴覚教育」特集連載
   「教育変革の時代と視聴覚教育
     −その原点を探る−」

 教師が楽しみ、学び、成長する手段
     としての視聴覚教育
−授業にコンピュ−タを使う七つの理由−

  東北学院大学教養学部講師 鈴木克明


(すずき・かつあき)国際基督教大学卒業。
同大学院修士課程から米国フロリダ州立大学
大学院博士課程修了、Ph.D. (学習指導シス
テム専攻)。ガニェ・ブリッグス基金最優秀
賞(専攻教授会)、授業開発研究最優秀賞(
米国教育コミニュケ−ション・工学会)授賞
。同大学教育工学センタ−助手を経て1988年
4月より現職。『授業設計理論のCAI教材
作成への応用』(英文、分担執筆)『教育の
方法・技術』(学文社、分担執筆)「教授メ
ディアの選択にかかわる要因」(『視聴覚教
育研究』第16号)「CAI教材の設計開発に
おける形成的評価の技法について」(同誌第
17号)「米国における授業設計モデル研究の
動向」(『日本教育工学雑誌』第13巻1号)
など。


 コンピュ−タを視聴覚教育の範疇に含める
かどうかもすっきりしないうちに、やれニュ
−メディアだ、レ−ザ−ディスクだ、はたま
たすべてのメディアを束ねるハイパ−メディ
アだという具合に、世の中の変化は止まると
ころを知らない。うっかり視聴覚教育なる畑
に足を踏み入れたばかりに、目まぐるしい技
術革新の動きと新しい実践報告の山について
いくのが大変だという悲鳴が聞こえてくるよ
うである。あるいは、それに疲れてか、「あ
んなものは視聴覚教育ではない」と新しいも
のを拒絶するむきもあるように聞く。
 この特集連載では、これまで視聴覚教育を
支えてきた人々がそれぞれの胸の内を述べら
れてきており、視聴覚教育の原点やこれから
の方向性も明らかにされてきた。そこで、本
稿では「視聴覚教育とは、教師が楽しみ、学
び、成長する手段のひとつである」との視点
を展開していきたい。視聴覚的な手段を使っ
て子供たちを楽しませ、学ばせ、成長させる
ためには、まずその活動の担い手である教師
が視聴覚教育の実践を楽しみ、そこから何か
を学び、成長していくことが望まれる。目ま
ぐるしく動く世の中に翻弄されることなく、
教師一人ひとりが「自分は視聴覚教育で何を
やりたいのか、何のために自分は今これをや
っているのか」を確かめる機会となれば幸い
である。そのために、次に具体的な問題を一
つ取り上げて論を進める。

 「こんなことのために何でコンピュ−タを
  使ったのか」という批判
 近頃、コンピュ−タを学習指導に利用する
実践研究の報告がなされる際に、よく耳にす
る「御意見」である。あれでは電子紙芝居だ
、プログラム学習教材をコンピュ−タに乗せ
たに過ぎない、紙と鉛筆でできることを何故
コンピュ−タにやらせるのか、コンピュ−タ
の特長を活かしていない、など、など。研究
会のために徹夜を繰り返してきた先生方が憤
慨して、ソフトの予算もないのに素人の私ら
が作ればこんなものになるのは当然だ、で終
わってしまう。生産的で意味のある検討会と
は程遠い。
 確かにこのような実践報告には、「研究」
としては物足りない面があるかも知れない。
これまでに積み重ねられてきた視聴覚教育の
研究成果を省みないものも多い。しかし、同
時に、「研究」としての物足りなさを感じた
としても、それがそのまま、報告された実践
の価値をゼロにするものではない。少なくと
も、その教師がCAIの実践をたとえどんな
ものであれ行わなければ、担当している子供
たちがCAIに触れる機会はなかったのであ
る。コンピュ−タの特長を活かし切れていな
いCAIを使った子供たちの体験をどう評価
するかについては意見が分かれるところでは
あろうが、何らかの影響があったことは想像
に難くない。以下、「こんなことのために何
でコンピュ−タを使ったのか」という批判に
対する答えをひとつずつ吟味する。

 一、「コンピュ−タを使いたかったから」
    という答え
 以前から視聴覚教材を自作することを楽し
んでいる先生は少なくない。子供の顔を思い
浮かべながらどんなOHPシ−トを作ったら
子供たちがこの学習課題に興味を示すかなと
想像したり、また、徐々に形になっていく教
材を作り上げるという楽しみがある。できあ
いのものを選ぶ場合にも、「これならば使え
る」という発見の喜びと、その使い方を考え
、組み立てる楽しさがある。CAI教材を自
作している先生の中にも、その制作過程を楽
しんでいる方も多い。シミュレ−ションを巧
みに提示したり、フィ−ドバックの言葉を工
夫したり、CAI教材をつくるのも楽しいも
のである。この楽しみのためにCAI教材を
つくった人に向かって「こんなことのために
何でコンピュ−タを使ったのか」と批判して
も、あまりピンとこないであろう。なぜなら
ば、本人は大層満足しているからである。
 つくる楽しさは、その活動を続けていくた
めの原動力となる。実践して、思った通りに
子供たちが「わかった!」と喜べば、それま
での苦労も報われる。予想に反した場合には
更に工夫してみようという気にもなる。まず
、授業を準備する楽しさ、教材をつくる楽し
さを見つけることである。

 二、「コンピュ−タを使う研究だった
    から」という答え
 とにかくコンピュ−タが40台導入された
ので、コンピュ−タを使って研究をしようと
いうことになった。よく聞く話である。これ
までも、多額の費用をかけて導入された視聴
覚教育機器に対して、同じような理由から研
究会が持たれてきたことは否定できない。い
わゆる解決すべき「問題」が確認される前に
、解決のための「手段」が先に与えられたケ
−スである。その結果として、コンピュ−タ
によって何を解決するのかという問題意識が
ないまま実践に入り、何が解決したのかにつ
いての吟味がないまま「与えられた手段を使
いました。」という報告に終わってしまう。
ごく自然のなりゆきであろうか。
 「手段」が先に与えられ、とにかくこれを
使ってみなさい、という状況におかれたとし
ても、その手段の使い手である教師が「それ
では、何のためにこれを使ってやろうか」と
いう問題意識を持つことはできる。CAI教
材をつくるとはどんなことかを体験してやろ
う。自分の日常の授業とどこが違うかを見つ
けてやろう。CAIは個人差に対応するとい
うが、どういうことかを確かめてみよう。日
頃の授業でも役に立つものが何か発見できな
いか。様々な問題意識を持って取り組み、教
師が学ぶ手段、としてとらえたらいかがであ
ろうか。同じような意味から、学校放送番組
や市販の視聴覚教材なども教師が学ぶための
材料とすることができる。

 三、「コンピュ−タに何ができるか興味が
    あったから」という答え
 ある特定の問題を解決する手段としてコン
ピュ−タを選んだわけではないが、とにかく
コンピュ−タを使って何ができるかやってみ
たい。いわゆるオ−プン・エンドな研究、問
題解決ではなく問題発見型の研究、である。
従って、こんなことに何でコンピュ−タかと
問われれば、とりあえず紙と鉛筆を使った場
合と同じことができるかどうかを知りたかっ
たと答えることになる。ものごとやってみな
ければわからないことが多いので、いざやっ
てみると様々なことが学べる。だから、一度
やってみるといいですよ、と逆に勧められた
りする。なるほど、と思える。
 確かに、この種の先進的な事例研究を通し
て、コンピュ−タを使う上で何が問題となり
、どんな解決法があり得るかを検討するきっ
かけをつくり、その後のより焦点の絞れた研
究へ進んでいく先駆けとなる可能性がある。
そうなるためには、この研究があくまでも「
問題発見」を目的とするものであることを念
頭に置き、子供たちの事前・事後の様子、あ
るいは学習中の記録などを詳細に渡って吟味
する必要があろう。そして、実践者として何
を学んだのか、今後どのような研究が求めら
れるのかを明確に記しておきたい。当たり前
のことだが、CAIで学んだことをCAI以
外に活かす意味でも大切なことである。

 四、「コンピュ−タは子供たちに人気が
    あるから」という答え
 ファミコンには飽きてきた子供たちも、学
校でコンピュ−タを使って授業をするとなれ
ば珍しいので興味を持つ。コンピュ−タ教室
に連れていくだけで喜ぶ。時期が夏でそこに
ク−ラ−があればなおさらだ。CAI授業の
後で子供たちにアンケ−トをとれば、コンピ
ュ−タ授業は楽しかった、もっとやりたい、
という結果になるようである。電子紙芝居的
な「ペ−ジめくり機」でもプログラム学習教
材をコンピュ−タにのせただけのドリルでも
、子供たちは結構喜んでやる。しかし、あま
り長続きはしないようである。
 これまでに新しいメディアの効果を古いメ
ディアとの比較で主張した研究の多くが、物
珍しさが手伝って効果を上げたに過ぎないと
いう反論を受けている。いわゆる「新奇性」
による効果の問題である。CAIに対する人
気は、使い慣れるにつれてその新しさ、珍し
さによる効果が失われることから、コンピュ
−タを使うこと自体よりも、CAIの中身に
依存してくる傾向も報告されている。つまり
、コンピュ−タを使えば万能というのでなく
、コンピュ−タであろうが何であろうが中身
が良くなければ仕方がないのである。これは
視聴覚教育の領域で繰り返し言われてきたこ
とであるが、やはり教師の方もコンピュ−タ
の「新奇性」にひかれるのであろうか、新し
いものへの強い関心が寄せられている。
 これに対し、一方で、ただ物珍しさの効果
しかないのだからコンピュ−タなどは取り入
れずにいままで通りでよいという考え方があ
る。また他方で、その物珍しさを上手に活用
して子供たちを学習に引き入れる方法を探ろ
うという考え方もある。「新奇性」による効
果が失われた時にも子供たちの意欲を引き出
せるようなCAIの中身を求めての研究も必
要である。が、それに加えて、「新奇性」自
体をいかにうまく利用するかという観点から
の研究も今後役立つと思われる。利用可能な
方法が増えるほど、それらを順番に活用する
ことで常に「新奇性」による効果を活かした
授業をすることも可能だからである。

 五、「コンピュ−タ・リテラシ−を育てた
    かったから」という答え
 これからの高度情報化社会を生き抜く力を
育てるためには、コンピュ−タを使いこなす
能力が必要であり、そのためにコンピュ−タ
を授業に使っている。たとえ紙と鉛筆で同じ
ようなことができるとしても、コンピュ−タ
を使う意味はそこにある。なるほど、と思わ
せる理由である。ある中学校でCAI学習に
慣れている子供たちに、初めて自作したCA
I教材を使わせた先生が、「子供たちはコン
ピュ−タの反応がないと、リタ−ンキ−を押
すということがわかっているからすごいもの
だ」と感心しておられた。コンピュ−タ・リ
テラシ−教育と特定して、キ−ボ−ドの操作
法などを説明する時間を設けるよりも、他の
目的のために使っている間に自然に操作法を
身につけてしまう方が自然といえよう。これ
までも、視聴覚メディアを活用することで画
像メッセ−ジを読み取る力をつけるといった
ことが提唱されてきており、その延長線上に
とらえることができる考え方である。
 学校放送番組を用いる時には、全国津々浦
々の仲間が同じ番組を見ているという現実を
子供たちに認識させたいとする考え方がある
。同様に、CAI学習が、子供たちにコンピ
ュ−タそのもの、ひいては情報化社会あるい
は「機械的であること」に対する経験を与え
、イメ−ジを形成させているという点に注意
を払いたい。細心のチェックを事前にしたに
もかかわらず授業中に教材の誤りを指摘され
た先生が、「それは俺のミス。今のコンピュ
−タには頭がないから人間がミスを入れると
そのまま出してくるから困るな。」と生徒に
つぶやいていた。使っている道具の本質をま
ず教師が学ぶ機会としたいものである。

 六、「コンピュ−タを使うと便利だから」
    という答え
 視聴覚教材の活用を妨げる原因の一つとし
て、あまり頻繁に使うと「あの人は機械にや
らせて手を抜いている」という評判を立てら
れるという話を耳にしたことがある。そこま
でいかなくとも、あの先生は黒板に書くのが
面倒なので代わりにOHPを使っている、な
どと生徒の間で噂の種になる。もしも忙しく
動き回っていて考える余裕もつくれない人が
まじめに働いていると解釈される雰囲気があ
るとしたら、コンピュ−タを使うと授業中楽
ですからなどと言うのはなかなかの度胸が必
要になる。その先生のコンピュ−タ授業を拝
見すると、CAI教材につまづいた生徒を一
人ずつ丁寧に見て回っていた。準備は大変だ
が、確かにコンピュ−タは便利な道具である
。うまく使いこなせれば、の話だが。
 視聴覚教育機器を使う主な目的は、より多
くの子供たちにより多くのことをより深くわ
かってもらいたいという教師の願いをかなえ
るためであろう。しかし、同時に、多忙な教
師の手助けとして、教師に考える余裕を与え
るという意味で「教授活動の効率化・省力化
」の側面も大切にしたい。OHPは黒板と同
じ使い方をしてはだめだと言われるが、OH
Pを使って生徒が写している間きちんとでき
たかどうかを机間巡視して確かめるといった
配慮は、教師が黒板に書く作業に忙しい間は
生まれてこないかも知れない。手抜きは仕事
の本質がわからなければできないというのは
単なる言い訳に過ぎないのであろうか。

 七、「コンピュ−タにしかできないことだ
    から」という答え
 紙と鉛筆ででもできるように思えることで
も、実際はコンピュ−タを使わないと現実的
でないこともある。分岐型のプログラム学習
教材(いわゆるスクランブルド・ブック)を
人数分印刷して製本、管理する手間を考える
と、LANを使ってCAI教材を準備する方
がはるかに現実的な場合もあろう。CAIな
らば、パラパラと先をめくって答えを見てか
ら次に進むといった「覚えないで終わらせる
手」を防ぐ可能性もある。また、一見した所
では単語カ−ドと同じようなドリル型CAI
教材に、実はその舞台裏で誤りの種類に応じ
て次に提示する項目を取捨選択するメカニズ
ムを備えていたという例もある。
 「コンピュ−タだけにしかできない」こと
はあまり多くないかも知れないが、「コンピ
ュ−タを使うことでようやく現実的になって
きた」ことも含めると、様々な活用法が考え
られるし、試してみたくもなる。中でも、練
習とフィ−ドバックの個別化、生徒による教
材作りを通じての学習能力や主体的な学習態
度の育成などに心踊るものがある。また、先
生方には、CAI教材を作ることで授業設計
のノウハウとそれを支える考え方を身につけ
て、CAI教材以外の授業にも活かして欲し
いなどと、期待は募るばかりである。

        おわりに
 いろいろと考えてみると、どうも「こんな
ことのために何でコンピュ−タを使ったのか
」という批判は、あまり的を得ていないよう
にも思えてくる。教授メディアとしてコンピ
ュ−タにはどんな長所・短所があるのかとい
う研究は可能だが、使い方が正しくないとか
レベルの低い使い方であるとかいった判断は
、簡単にはできない。コンピュ−タなどを授
業に用いる際には、学習を助ける効果の側面
だけでなく、教師側の授業の準備、運営、管
理といった面や、子供たちの授業に対する構
えや期待感などを含めて、様々な側面に影響
を及ぼすことを免れないからである。「何で
コンピュ−タか」という問いには、「教師が
楽しみ、学ぶ道具」という答えはどうであろ
うか。そう言えるように、自らの実践を一歩
離れた場所から常に見つめていたいものであ
る。このコンピュ−タ授業をめぐる論議の一
コマを材料にして、これまでのあなたの視聴
覚教育を振り返ってみて頂きたい。今後どの
ようなメディアが出現しても、視聴覚教育を
支える考え方は忘れないようにしたい。