『放送教育』1993年1月号原稿
シリーズこれからの放送教育を考える


情報社会型の放送教育(2)


東北学院大学 鈴木 克明



情報社会型の放送教育をどう実現するのか

「これからの放送教育」を考えるために、先月号では「放送教育でこれからの学校をどんな風に変えていくきっかけをつくるのか」という問題に対する答えとして、「情報社会型」の学校についてのイメージを追いかけた。それでは、その実現に向けて、放送教育は一体何ができるのであろうか。教育にたずさわる我々は何を、どのような姿勢で研究していくことが求められているのだろうか。

アメリカの教育工学者ジョンMケラーは、学習意欲を育てるための観点としておもしろそうだなと感じる「注意」、やりがいがある内容だと思う「関連性」、やればできそうだなと思う「自信」、そしてやってよかったなと感じる「満足感」の4つの側面から吟味するためのモデルを提唱している(ARCSモデル;拙稿「情報化社会に向けて学習意欲を育てる」『教育工学実践研究No.107』を参照)。学習意欲の育成が叫ばれている今日、これからの放送教育が何をなしうるのかについて、ケラーの4側面に添って検討してみたい。

身を乗り出させ、学習へのきっかけをつくる手段としての放送:注意の側面

放送番組利用の効果として古くから指摘され続けていることに、「子どもたちの興味関心を集める」という点がある。いわゆる単元開始時の「導入としての意欲喚起のための番組利用」である。「はっとさせられる」「おもしろそうだと思う」「調べてみたくなる」「目先を変える」などはケラーのモデルでは全て「注意」の側面からの動機づけと考えられていることから、番組視聴でケラーのいう「注意」の側面を満たす可能性はある。そのためには、番組には「えっと思わせる」あるいは「調べてみたくなるような気持ちにさせる」ことが求められる。

さらに重要なのは、視聴後にその気持ちをどうやって発展させていくか、子どもたちが自らの関心に基づいて番組を超えて調べてみる材料をどのようにお膳立てするか、といった意味での番組利用法を研究することである。ゆえに、番組利用法の研究の最小単位は「単元」となるのが自然であり、「番組によって喚起された興味関心をその後の学習活動でどう発展させることができたのか」を吟味することで初めて、番組の注意喚起の効果を確かめることができる。

授業公開の時間に番組を視聴するという暗黙の了解があるためにその後の展開での深まりが参観できないとしたら、それは残念なことである。番組視聴中の子どもたちの目の輝きを参観するより、それを教師がどう発展させるかを見てみたいと思うからである。

現実社会と学校知を結ぶ「窓」としての放送:関連性の側面

ケラーが指摘する学習意欲育成の第二の側面は「関連性」である。「自分にとって親しみのあること」「やりがいのあること(目標の価値)」「やっていて楽しいこと(プロセスの価値)」などが関連性を高めるという。「どうしてこんな勉強をしなければならないのですか?」という問いには勉強の意義が見いだせない(関連性が見えない)不満が表されている。現在の学校においてその学習内容の「関連性」を高める最大の要因は受験とそれに関わる成績かも知れない。最近では「我社の新聞から受験問題が出題されています」という事実で新聞をアピールする広告まで見られるが、放送番組がこの意味で寄与できるものは少ない。

放送番組が学習内容の「関連性」を高めるとすれば、それは、教室での学習と現実の世界を結びつける「窓」としての役割を果たす場合であろう。学校では、知識が無味乾燥でバラバラのものとして、現実の世界と切り離された状況で教え込まれているという指摘がある。教科書の内容に息吹を与え、子どもたちの現実の経験との橋渡しとして、あるいは子どもの世界を時空を超えて広げる「窓」として放送番組が使われたならば、学校での「お勉強」がもっと生き生きとしたものに変化する。「なぜこんなことを勉強する必要があるのか」という問いへの答えが自然と子どもたちに見えてくることが期待できる。

世の中は時々刻々と変化している。様々な情報が飛び交っている。そんな時代だからこそ、情報の「窓」としての放送番組の果たす意義が強調され過ぎることはない。教師自身が学習内容を無味乾燥なものとしてとらえる罠に陥らないようにするためにも、放送を通じて世の中を意識していたいものである。

情報活用能力を育てるメディアとしての放送:自信の側面

ケラーの指摘する学習意欲育成の第三の側面は「自信」をつけることである。自らの目指すゴールがはっきり認識でき、それに向かって成功の体験をつみ、自分の成功を自分の努力に帰属できるとき、人は学ぶ自信をつけるという。徐々に増えていくリスクを乗り越えて、自らの手で成功をつかみ取る経験が欠かせないと指摘している。言い換えれば、いつまでも「赤ん坊扱い」で手取り足取り教えているのはだめで、「子どもたち自身で考えて自分たちのやり方で」学習するチャンスが不可欠、教師の援助は必要なことだけにとどめる。これは正に「情報活用能力」の育成につながる条件でもある。では、放送番組によって、自信をつけられるのだろうか?

一つの答えは、子どもが自分が欲しい情報を探しているときに、「見つけだされる対象として存在させる利用法」である。数年前の放送教育学会のとき、金沢の小学校で拝見した誠に雑然とした社会科の授業では、教室の四隅に1台ずつのVTRがおかれ、自分の学習テーマに合う番組を子どもたちが選択して視聴していた。これこそが「情報活用能力」につながる放送番組利用法だと思った。この種の利用法ではすでに「調べてみたい」と思っている子どもたちに、欲しい情報を与えてくれさえすればよい(そこからさらに好奇心が芽生えればなおよいが)。調べたいと思うような課題設定や放送番組を含む材料は全て教師が前もって準備してあり、利用法の勝利という強い印象を受けた。

従前からの番組の一斉視聴は「注意」の喚起には適した利用法であるが、一斉に視聴することによって子どもたちに学ぶ自信がつくとは考えられない。むしろ前述の金沢の例のように、放送番組をプリントや参考書等の資料と並列に据えて、子どもが自分で選んで好きな番組を視聴するといった柔軟性を模索する研究がもっとあってよい。教師を中心とした権威ある情報源からの受動的学習という型を問い直す良い機会でもある。

放送発信基地としての学校:満足感の側面

ケラーの提唱する最後の側面は「満足感」による学習意欲の持続である。一生懸命努力した結果に満足してこそ「やってよかった」と思い、その学習課題や教科が好きになり、ひいては勉強が好きになり、もっとやろうという意欲が続く。そのためには、努力の成果が明らかで「報われた」と実感できること、仲間や先生に認められること、また、えこひいきや不公平感などの不満が残らないことなどが大切だとケラーは指摘している。放送教育で満足感をどう実現できるのか?

一つの可能性として、「学習成果発表メディアとしての放送」というのはどうだろうか。従来から、子どもたちの発表の場面として各種コンクールや運動会、文化祭等、家族や地域社会向けの成果発表の場面が用意されている。発表への準備を重ねる中で、学習が深まり、やればできるという自信がつき、やってよかったという満足感が得られてきた。

その延長線上に、これからの時代には、地方、全国、あるいは世界を相手にした発表の機会があってもよい。全世界的に子どもたちが調査したデータをパソコン通信を媒介に共有して、授業にひろがりをもたせる試みも報告されている。もしもある地方の小さな分校で子どもたちが調べたものを放送にのせ、それに対する反響が全国から集まってきたとすれば、これ以上の「満足感」があるだろうか。この情報社会にあって、いつまでも放送だけが一方通行的なメディアであり続けるわけにもいかないと思う。どうせ双方向にするならば、子どもたちにやりがいと満足感を与える方向で検討してみたいものである。

放送教育がなしうること:学校を変える

ケラーのARCSモデルにしたがって学習意欲の育成を吟味してみると、今まで放送教育の一つの「目玉」であった「興味関心」がより多角的な観点から相対化できる。学習意欲を育てるという名の元に「目の輝き」「身を乗り出させること」だけに終始してこなかったかどうか点検したい。もちろん学習へのきっかけをつくることも大切である。しかし、これからは、情報活用能力に裏づけられた学習意欲の育成が鍵になると思う。

放送教育は、その黎明期において工業社会型のメディアとして情報の広範囲伝達、普及を志向していたし、今でもその特性は生かされるべきものである。たとえばアメリカでは、各学校での教員の守備範囲を越えた多様なカリキュラムを進度の異なる子どもたち全員に保証するために、地域の放送局から流す放送番組を基幹にしてスクーリングを組み合わせた授業を展開する試みが報告されている。伝達するものの質を高め、多様性を増すことで、視聴する側が必要なときに必要なものを選択して受けられる状況を維持し、教育の裾野を広げたいものである。

より多様性をおしすすめて、これからの放送教育においては、番組を選択する「視聴する側」には教師だけではなく子どもたちを据えたい。そのためには、図書館の利用法を教えるように、放送番組のビデオライブラリを整備して、その利用法を教える必要があろう。また、変化する社会のより新しい情報に手を延ばすために、番組録画の方法、あるいは役に立ちそうな番組を選んで録画するための「番組表の見方」の訓練も必要になる。

放送教育の歴史は、ある意味で「異質なものを教室王国に取り込んできた」歴史であった。それは「教師にとって異質なもの」としての放送番組であった。この伝統もこれからの情報社会において踏襲されるべきものだと思う。なぜならば、これからの情報社会型の学校においては、生徒がどこからか探して録画してきた番組を筆頭に、様々な「教師にとって異質な」情報が授業で乱れ飛ぶような事態こそが歓迎されるからである。

その意味では、これからの学校に求められる最大のものは教師自身の情報活用能力に他ならない。放送教育の研究を通じて、求められる情報社会型の学校を現実のものにするための推進力を、放送教育に携わる我々がまず、身につけていきたいものである。