教師の授業改善を支えるための評価


教育評価の専門書によれば、評価とは、意志決定のための情報収集であるという。「誰の」「どんな」意志決定のために「いつ」「どのように」行なうかは特定されていないので、評価には様々な立場、考え方、そして方法が成り立つことになる。

今般の学習指導要録の改訂にあたっては、「新学力観」に基づいて「自ら学ぶ意欲の育成」などを重視する方針が打ち出され、具体的には観点別評価の「関心・意欲・態度」がクローズアップされた。NHKの番組でも絶対評価をめぐるある小学校の奮闘記録をとりあげたり、評価方法の解説書も多数出版されたりと、評価の研究が活発になってきた。

子どもの「関心・意欲・態度」の状態を把握するために、観察のポイントを整理し、アンケートやインタビュ ーなどを実施する。この結果収集された「データ」はいったい誰のどのような意志決定のために用いられるのであろうか?

指導要録に記録として残す。あるいは通知表によって保護者や子ども本人に知らせ、勉強への取り組ませ方、取り組み方を考えるための参考資料とする。これらの目的のためには、困難を極めることが予想されても、できるだけ正確で客観的な情報を提供するための工夫が教師に求められているのだろう。

一方で、評価は教師自身が授業に関する意志決定を行なうための情報収集でもある。授業のねらいがどの程度達成できたのか、ねらいを達成するための手段として選んだ授業の素材や進め方はよかったのか、直すとしたらどこをどう直せばよいのだろうか。これらの疑問に答え、自分の授業の改善に資するために行なう「授業の評価」である。ここでは、「子どもの評価」は授業の善し悪しを判断するための材料を提供してもらうものとして位置づけられる。授業をよりよくするという意味の「形成的評価」の考え方である。

この考え方の背景には、授業の評価は何よりも子どもたちが授業のねらいに近づいたかどうかを実際に確かめないと行なえないとする「学習者検証の原理」がある。目的に応じた教材が用意されているか、起承転結の組み立てがどうか、あるいは子どもへの指示や発問は適切であったかといった観点から授業を評価することも大切である。しかし、授業の目的が子どもの学習を支援していくことにあるとの前提に立てば、授業の評価は子どもの学習状況の把握を抜きにして行なえるものではないことは明白である。子どもが授業を受けた結果学ぶべきことを学んだということを確かめて初めて「教えることができた」と言えるのであって、それまでは「教えようとしていた」に過ぎない。学習が成立した証拠をもって「教えた」かどうかを確認するという成功的教育観の立場である。

今回の指導要録改訂において「関心・意欲・態度」の評価を重視するということは、授業のねらいとしてそれを重視せよということであり、その育成につながる授業方法を工夫せよということである。記録を正確に残せばそれで済むという問題ではない。なぜならば、子どもにある評価を与えるということと自分の授業のでき具合を評価するということとは常に表裏一体の関係にあるからだ。

評価が低い子どものやる気のなさを嘆くのではなく、意欲を育てられなかった授業を少しでも改めていく。この授業改善への努力を支える評価の最も基本的な役割を忘れてはならない。「関心・意欲・態度」が重視されていることを察知した子どもが「つまらなそうにしていては点数が下がるから」「どのくらい積極的に活動しているかを先生が記録に残しているから」という理由で先生の前でだけでは興味があるように振る舞うようになるといった本末転倒だけは何としても避けなければならない。

「教師の授業改善を支えるための評価」という視点を忘れないようにしたい。






ボツ分

授業の改善を目的とする評価は、授業の良否を判定して点数を付けるというよりもむしろ授業をよりよいものに形づくっていくという意味で、「形成的評価」に主眼がおかれる。したがって、全てが終わってからやおら評価を開始するのではなく、不断の設計→実践→評価→設計の見直しの繰り返しが不可欠となる。また、授業のねらいに向けて授業の方法の妥当性を点検するという意味で、授業のねらいの達成に基準をおいた「絶対評価」であり、評価が適切に行なわれたかどうかは、ねらいとの整合性によって判断される。したがって、評価の時期や方法は、授業のねらいを掲げた時点で計画しておかなければならない。つまり、評価の計画が重視される。

情意領域の評価に関しては、放送教育研究の領域での知見に卓越したものがある。それは、第一に、もともと放送番組利用の目指していたことが情意領域であったことによる。授業の冒頭で子どもたちの興味を高めたり、「もっと調べてみよう」という探求心を刺激したりするために放送番組を活用してきた。情意領域での授業評価の手法の確立抜きには、放送教育研究の発展が望めないという危機感で取り組んできた。授業のねらいに情意領域の学習成果を据え、それに近づく手段として選択した授業方法の有効性を問うために情意領域の評価方法を模索してきたという姿勢を、他の授業方法にも拡大し、大いに継承すべきものであると思う。そこには評価のためだけの評価はなく、授業をよりよくするための評価がある。

第二に、子どもたちが遠慮なく番組に対する感情をぶつけることができたということを指摘したい。放送番組は教師がつくったものでないという事実は、素直に(特に否定的な感情を)表明できる環境を整えてきた点において、少なからず影響を与えてきたのではないか。子どもの情意的な変化を捉え、それを授業の評価に生かそうとする際には、遠慮なく授業を批判できる環境が欠かせない。子どもたちにとって、教師の求める答えを必死で捜し当てようとする「あてもの学習」が情意領域に及ぶことほど悲惨なことはない。

わかりやすい授業が設計できれば、自ずと興味関心を引き、学習意欲も高まるであろうという仮定があった。たとえば「学習者に目標を知らせる」という働きかけ一つにも、学習課題を明確に示すことで学習に対するイメージを鮮明なものにし、期待感をふくらませ、意欲的に取り組ませる効果があるという。わかりにくい授業であれば、そのままの状態で「関心・意欲・態度」だけを高めることは困難であろう。「知識・理解」の内実を伴わない表面的な繕いだけでは、そう長続きするわけはない。