『放送教育』1994年1月号 (第48巻10号) 14 - 17
(特集第44回放送教育研究会全国大会レポート)
宮城大会の成果とこれからの課題

成功裏に幕を閉じたことに感謝


第44回放送教育研究会全国大会(宮城大会)は、平成5年10月29日(金)、全国から延べ六千余名の先生方の参加を得、成功裏に幕をおろした。まず、全国から参加いただき熱心に討議くださった先生方に厚く感謝申し上げたい。短い日程で慌ただしい大会ではあ ったが、「宮城に来てよかった」と思える何かを必ずやお持ち帰られたことと思う。

宮城大会を支えた多くの方々、ご苦労様でした!終わってしまえば一瞬の出来事であっ た。しかし、それを準備する苦労は並々ならぬものだった。本大会に向けて制作されたハイビジョン番組いのち輝け地球「川は生きている」に登場したホタルの一生が思い出される。わずか数日美しく輝くために、地中で長い時を過ごす。見て頂けた部分はごくわずかではあったが、長く懸命な準備がそれを支えていた。様々な形の献身的な努力があった。

大会に関係した者の胸には、「よくやれたものだ」という安堵感とともに、与えられた責務を果たしたことに対しての充足感が溢れている。全国の先生方に懸命な取り組みを見ていただくことで、宮城県からの情報発信ができた。放送利用という共通項をとおして、校種を越えたつながりが確認できた。本大会が宮城県の放送教育関係者に成就感と連帯感とを残してくれたことは、確かだ。


一日開催の宮城大会


44回を数える本大会を宮城県に迎えたのは3回目だった。昭和36年の第12回大会、昭和44年の第20回大会以来の、実に24年ぶりの大会開催であった。幸いにも、大会事務局の主だった先生方は24年前の大会当時からの放送教育実践のベテランで、歴史の重みを感じさせた。指導室にも放送教育の変遷をよくご存じで、長く宮城県の指導的立場にある先生方をお迎えできた。放送教育の歴史が宮城大会を支えていた。

本大会の長い歴史の中で、宮城大会は大会のコンパクト化という方針を受け、いわゆる「一日開催」の初年度にあたった。その結果校種別全体会の廃止、全体会での記念講演やアトラクションの廃止など、昨年までの大会に比べてより厳選したプログラムとせざるを得なかった。午前中を各公開園・校ごとに、午後は全体会場でのセミナーと総合全体会に、という過密スケジュールだった。点在する会場校から午後の全体会場への移動時間もあり、午前中の公開園・校ごとの研究交流も限られた時間しか確保できなかった。

来年度の第45回大会(愛媛大会)では、一日開催を初日の午後と二日目の午前中に分割して行なう予定だという。一日開催で成果を最大にするための工夫が、何年かかけて試行錯誤されることになるのだろう。開催方法という点から、宮城大会は放送教育が一つの転換期にあることを物語っていた。


進化するハイビジョン利用術


1988年12月に世界初のハイビジョン授業が行なわれ、翌年の第40回大会(広島大会)において初めてハイビジョンを本大会として正面から取り上げて5年が経過した。第41回大会(東京大会)では、歴史に残るハイビジョン環境番組「人と森林」を中心として、電子印刷によるハイビジョン教科書、さらにコンピュータとレーザーディスクとを連動させた映像データベースとマルチメディア学習システムへと展開させた。昨年の和歌山大会では、ハイビジョン生放送による初の公開授業が行なわれ、宮城でも同じ番組の生放送を受信して授業研究を行なった。

今年度は4本のハイビジョン番組が制作され、生放送で公開保育・授業に供された。札幌、東京、豊橋、松山の各地でも、同時に生放送の電波を受信しての授業研究が行なわれた。また、午後の総合全体会のシンポジウム「ハイビジ ョンがひらく明日の教育」は、宮城から全国へハイビジョン生中継された。ハイビジョン利用の伝統を受け継ぎ、宮城大会でも次世代テレビの可能性を模索したが、これまでとは趣が異なる点がいくつかあった。


ハイビジョンを「普通のテレビ」に


まず、ハイビジョンをできるだけ「普通のテレビ」として扱おうとした。特別なものという意識を持たせずに視聴させても、ハイビジョンの教育特性が顕著なものならば、自ずと子どもたちの反応に効果が現われるはずだと考えた。ハイビジョンの技術的な進展もこの試みを可能なものにした。具体的には、百インチ以上の大画面を暗幕を施した部屋で視聴するこれまでの映画型の視聴環境から、明るい教室で教室サイズの33インチモニターを用いた視聴環境へと変化させた。

ハイビジョンを「普通のテレビ」に近づけようとした実践の成果はまだ詳細に吟味されていない。しかし幼稚園では、15分間の番組に子どもたちが集中していた様子や臨場感溢れる音に反応していたことなどの報告があ った。また小学校の実践(社会科)では、視聴後の子どもたちの課題追及に「捨てきれないこだわり」がより強く残ったことが報告され、番組の持つインパクトが子どもたち各自の個性的な視点と相乗効果を生んだ可能性が示唆された。さらに幼稚園では、ハイビジョン番組視聴が長く子どもたちの心に残っていて数ヵ月後の創作活動に影響を及ぼしたことも報告され、視聴体験の効果が短期間では捉えきれない点が改めて浮き彫りにされた。

これらの傾向が、ハイビジョンそのものの教育特性なのか、制作された番組の構成によるものなのか、公開保育・授業という特異な視聴環境のなせる技なのか、あるいはそれらの相互作用によるものなのか、今後の吟味が待たれるところである。しかし、少なくとも、子どもの心情に訴える効果や広がりのある課題追及を刺激する効果、あるいは視聴によって刺激された発展的な学習活動をいかに組織するかといった、放送教育の古くて新しい課題がハイビジョンでも等しく重要であるということだけは確かめられた。


ハイビジョンをマルチメディアの窓に


宮城大会では、ハイビジョンを「マルチメディアの窓」として捉える実験的な試みを行なった。これが第二の特徴である。東京大会でのマルチメディアへの広がりを踏襲し、仙台市立福室小学校6年2組では一年間の追及課題として環境問題を取り上げ、近隣の七北田川を実地調査した結果を映像やイラスト、記事などの形で、班ごとにコンピュータに統合化する実践を積み重ねてきた。公開授業では半年間の活動をまとめる中間発表会を行ない、さらにそれを午後の全体会場に集まった先生方や生放送を介して全国に披露するために、シンポジウムでハイビジョン二元生中継を行なった。その際、全体会場と福室小学校とをコンピュータ回線で結び、子どもたちが作り上げてきた調査結果を全体会場から調べたり、パネラー代表のビジュアリスト手塚眞氏と子どもの代表が共同で一枚の絵を仕上げるなどを試みた。ハイビジョンをマルチメデ ィアの窓としての、世界初の双方向の情報のやり取りを行なったのである。

コンピュータがこれからの教育に大きな影響を与えていくと言われて久しい。また、教育の実践へ着実に根付いてきている。本大会でも、早くからコンピュータと放送との融合を取り上げてきた。一方で、ビデオ機器の簡便化が進み、放送でいわゆる素人の映像が流される機会も増えてきた。プロの優れた映像によって刺激を受けるだけでなく、子どもたちにも映像の創り手となり、自分たちの集めた情報を発信していく番が回ってきた。

そんな時代に欠かせないのが、双方向の情報のやり取りを媒介するための、コンピュータと相性がよい次世代テレビである。「ハイビジョンは子どもたちの武器になる」という手塚眞氏の言葉が耳から離れない。「(ハイビジョン視聴の)この興奮を、この感激を、どのように教育活動の中で生かし、効果を上げ、定着させるか、その理論的研究はこれからである。(久實『放送教育』1993年1月号p、17)」とした和歌山大会で残された課題への宮城大会としての一つの答えだった。


研究を振り返って


宮城大会での研究主題は、「自ら学ぶ意欲と主体的に生きる力を培う放送教育をすすめよう」であった。学習指導要領の改正、新学力観、あるいは全放連第2次研究計画を意識した主題設定であり、重要な課題を的確に含んだでいた。しかし、現在の教育課題に取り組む際の問題点を網羅する主題であり、この大会で目指すところが何であるかを絞り込んで明示する役割は果たせなかったと思う。

これまでの大会を振り返ると、大会のキーワードを明確に示し、校種を越えてそれを一丸となって目指していたことが多かった。それがそもそも研究主題のもつ役割であるし、そのような指導力を提供できなかったのはひとえに筆者の非力によるものであった。その反面、宮城大会では「どんな教育からも子どもたちはたくましく学んでいく」がごとく、方向性を明示しない指導室長をもった先生方は自ら主体的に研究主題について考え、たくましく授業実践に結びつけた。自ら学ぶ意欲と主体的に生きる力を子どもに培うのに相応しい教師集団によって、自ら主体的に考え出された方向性を持つ研究が展開された。

その結果、全体としての方向性は絞り込めなかったものの、これまでの研究経過を反映した、多種多様な取り組みがなされた。幼稚園ではイメージと表現活動、自然との関わり,遊びの創造といった領域での研究課題を公開園ごとに生かし、小学校では理科や社会科といった教科を絞り込んだ放送利用に全校で取り組んだり、校舎の特徴を生かした自己教育力の育成という観点から放送利用を考えた。それは、放送よりもむしろ教育に力点をおいた放送教育の研究として結実した。個性を重視する時代に相応しい大会であった。


多くの「未測量」を残して


今年度制作されたハイビジョン番組の一つに、伊能忠敬を扱った力作があった。小学校社会科番組歴史みつけた「鳥のように虫のように〜歩いてつくった日本地図〜」である。仙台市立松陵小学校6年3組でこの番組を視聴された大阪大学の水越敏行氏は、50歳を過ぎて測量に乗りだした忠敬の決意と共に、測量できない箇所を「未測量」として記載した科学への忠実な態度が表現されていることを見逃してはならないと指摘されていた。多くの方々に多種多様な「何か」をもたらした宮城大会を振り返るという作業の過程にも、多くの未測量部分が残っていることを痛感する。研究結果の継承のためにも、放送教育の発展のためにも、今後とも未測量部分に光をあてる努力が求められている。

指導室長という大役を仰せつかってからの準備期間はあっという間に過ぎ去った、と今振り返って思う。宮城大会を支えた多くの人たちとの出会いがあった。その中から、指導するという立場にありながら、筆者自身がとても多くのことを学ばせていただいた。大会に携わった関係各位にとっても、それぞれが果たした役割の中に、筆者の学びに匹敵した,あるいはそれを上回った収穫があったことを願ってやまない。ありがとう、宮城大会!