『AVSCIENCE』第216号 12 - 16
 リレー連載(教育における機械と人間3)

もう一つの授業設計


鈴木克明



教材を準備・実施・評価・改善するためのシステム的な方法論として、授業設計の様々な技法が研究されてきた。しかし、学習目標を達成しつつもその背後に様々な要求を抱える学校の授業(教育)は、ある特定の成果を収めればよい訓練(トレーニング)とは違う。関心・意欲・態度といった情意面の成果が重視され、情報活用能力の育成が叫ばれている中で、毎時間の授業内容に習熟させることと「新学力観」との折り合いをどうつければよいのか。授業設計論の視点から、教育における機械と人間との関わりについて考えてみたい。

ガーベッジ・イン、ガーベッジ・アウト

筆者がアメリカ留学中に勤務していたフロリダ州立大学付属の教育工学センターでは、陸軍の新人向け基礎学力向上のためのCAIシステムの開発研究に取り組んでいた。陸軍の業務分析に基づいて、新人に必要とされる読解力や計算力、読図力など約300領域におよぶコンピュータ教材を設計・開発する大プロジェクトだった。筆者は、プロジェクト初期にはデザイナー(設計者)として教材の設計を担当し、やがて大半の教材が設計される頃には設計された教材をコンピュータ化するプログラマーとして働いていた。

その当時、プログラマー仲間で交わされた会話の中にしばしば登場したのが「ガーベッジ・イン、ガーベッジ・アウト」というフレーズである。直訳すれば「ゴミを入れれば出るのもゴミ」、その心は、教材の設計がまずければプログラマーがどんなに才能に恵まれていても、良い教材は出来上がらない、注文書どおりの粗悪教材が完成しますよ、という皮肉を込めた嘆きである。

自分がかつて設計した教材に対しての皮肉でないことを願いつつ、プログラマーとして他人が設計した教材をプログラミングしていた経験からうなずくこともしばしばであった。良くも悪くも機械を介した営みには、命令が忠実に実行されるという特徴があり、コースウエアの設計が教材の良否を決定する。周到に用意されれば効果的な教材となるが、ミスが入ればそれがそのまま実行される。まさに「ガーベッジ・イン、ガーベッジ・アウト」なのである。

良質なコースウエアの設計

教育の営みに機械を用いるときには、常にこの「ガーベッジ・イン、ガーベッジ・アウト」の危険が伴う。機械を授業に用いても、コースウエアの質が悪ければ学習効果を高めることは期待できない。むしろ、機械を相手に学習してもうまくいかない、というマイナスのイメージを利用者に植えつけることにもなりかねない。機械にぶっきらぼうにされたからといって、機械の「冷たさ」を悪く言っても仕方ない。機械とは元来そういうものであり、その機械にのせるコースウエアの設計者がぶっきらぼうな対応しか用意していなかったことが素直に表出しただけのことである。かつてスキナーが言った「もちろん機械そのものが教えることはできない。機械はただ生徒と教材作成者とを結びつける働きをするだけである。」という名言が思い出される。良質なコースウエアがなければ、(機械というものは柔軟性が低いことを理解させるという目的を達成させること以外には)機械は百害あって一利なしといっても過言ではあるまい。

授業に機械を取り入れようとする者にとって、機械は自らの分析力を試す手ごわい指標となる。CAI教材を導入することで一番勉強させられるのは教材を自作した教師であるという。子どもの反応に臨機応変に対応する人間教師と異なり、柔軟性を持たない機械を使うためには、詳細に学習過程を構成し、多様な反応を予測し、個人差に応じた方策を用意する力量が必要となるからである。「ガーベッジ・イン、ガーベッジ・アウト」の悲劇を避けるためには、事前の詳細設計に加え、実際に子どもに使わせてみて教材を形成的に評価し、学習者検証の原理にしたがって教材の改善を行なうというプロセスを経ることがいかに重要であるかが身にしみて体験できる。

一方で、学習者にとって「冷たい」機械は、何度でも繰り返し飽きることなく、怒ることなく付き合ってくれる辛抱強い相手ともなりうる。使い方次第では、短気な人間よりもよほど人間らしく応対してくれる。また、機械相手なら、どんなにできが悪くても恥をかくこともない。情報付加的なフィードバックが用意されていれば、間違いを試しながら、「転んでもただで起きない」式の幅の広い学習も可能となる。機械との付き合い方に慣れてしまえば、「えこひいき」されることもなければ「相性の悪い教師との不運な巡り合わせ」に泣かされることもない。機械を相手にして思い知るのは、「人間的であること」には常にプラス面とマイナス面が伴う、ということだろうか。

授業設計の哲学:合目的的アプローチ

アメリカ陸軍の新人用教材の例のように、教材設計の研究は、機械を用いた訓練(トレーニング)をより効果的なものにするための技法として発展してきた。プログラム学習とティーチングマシンとともに生まれ、CAI教材とともに育ってきたと言ってもよい。学習目標を明確に記述し、効果的な到達を手助けする教材設計のノウハウを提供してきた。また、実証的な立場にたつ教材開発のための技法も工夫してきた。教材設計のノウハウを人間教師が担当する授業の設計に応用する技法も確立してきた。

これらのシステム的な教材設計/授業設計の技法は、常に学習目標の明確化とその習得の促進をめぐって焦点化されてきた。すなわち、ある教材/授業で学習させたいことが何であるか(学習目標)、習得の成否は如何に判断されるか(評価)、そして学習させたいことの性質に鑑みてどのような学習過程を構築するのが最適か(指導方略)の3つの結び付きを問題にしてきた。学習目標を中心にして評価方法と指導方略の整合性を確保しようとするこの手法を「合目的的アプローチ」と呼んでおこう。

教材をシステム的に設計するというアイディアとその技法の確立は、教育の科学化に大きく貢献してきた。明確化された目標の達成のための手立てを準備し、手立ての適切性を目標到達への貢献という観点から吟味することで、実証的なデータによる授業のモデル化・理論化を指向した。

さらに、合目的的なアプローチは、現在の方法論の客観的な見直しを可能にする。方法を固定するのでなく、合目的的な尺度で方法の是非を吟味することによって、目的を達成するために、という観点から、よりよい方法を選択する余地が生まれるからである。とかく伝統が重視され、新しいものへの変化が立ち遅れる学校教育において、新しいメディアや新しい授業構成法の効果を立証し、伝統を改めて吟味する材料を提供してきた。未だに伝統への傾倒は根強いが、少なくとも比べる観点の一つが目標達成への貢献度であるという感覚を与えてくれた。

合目的的アプローチの見直し

合目的的アプローチはパワフルである。しかし、同時に目標への焦点化がときとして授業設計に対する誤解を招く原因となった側面もある。技術的な問題として目標の明確化が困難であり、極く限定された領域の目標しか明確化できない、と批判されたこともあった。この点に対しては「兆候」としての目標の記述ということでの工夫が多くの困難を解決してきた。

しかし、目的が一つに絞れない、あるいは一つの目標を効果的に達成させることで他の重要な目標が抜け落ちてしまう気がする、という点に対しては未だに十分に解決をみているとは言えない。この点は、訓練の場合と異なって、明確にされた目標以外の追究が常に問題となる学校教育において特に顕著である。「字や数字を教えているけれど同時に人間を教えていることを忘れてはならない」という類の言葉にそれは象徴される。

確かに、授業の設計には、学習目標の達成を支援するという意味で、教材の設計と同じ技法を用いることが可能だ。例えば、漢字が書けるようにならないで困惑している子どもを目の前にして、どうすれば漢字が覚えられるかを指示できないのではプロの教師として情けない。実際に明示的な指示を与えるかあるいは子ども自身にそれを発見させるように導くかは別としても、指示すべき時には漢字の効果的な記憶法を例示ができることが求められる。訓練(トレーニング)のための教材設計ができればこの点は解決する。

しかし、訓練と教育とは同じではない。子どもたちが漢字を書けるようになればよいというわけでもない。日常的に授業の目標として目指すのはいわゆる訓練で目指すような目標と同じかも知れない。基礎基本の習得、授業内容の理解、といったものは、いずれも訓練が必要なものと言える。だが、訓練と、それを媒介とした教育的な営みが両方ともに授業設計の対象となるとき、これまでの合目的的なアプローチが十分な役割を果たすことができるのだろうか。

明確にされた授業の目標に向けての授業設計を内に含みながらも、その裏に求められているより大きく、繊細で、あるいはあいまいで、姿が捉えにくい目標に一歩ずつ近づくためのシステム的な技法は確立できないのか。「人間を教える」という大上段に直結することは困難だとしても、「情報活用能力」の育成や「関心・意欲・態度」の醸成などの通常の設計単位では手に負えそうもない課題と、一時間ごと、単元ごとの授業の目標とを結び付ける手立てはないのだろうか。

これまでに、短期的な合目的的アプローチに支えられた授業設計の枠組みを見直す試みがいくつか提案されてきている。いわば「もう一つの授業設計」への模索と言える研究である。その成果をいくつか紹介してみたい。

terminal から target への発想の転換

一つの提案は、毎時間の授業の到達目標を最終的な終着駅(terminal objective)と考えずに、より大きな目標への足がかりと見なす、着想の転換である。足がかりと見なされた到達目標は、とりあえず目指すもの、それを標的にして大きな獲物を狙うという意味で標的目標(target objective)と言われる。ある授業の目標を設定して、その目標に効果的に到達させる授業の組み立てや材料を合目的的に設計する点はこれまでと変わらない。しかし、その作業と同時に、「この授業目標を目指すのは何のためか」に思いを巡らせる。そうすると、その授業と関連の授業を含めた一段上の目標に思い至ることになる。

例えば、アメリカの産業の特色を理解させる授業での、今までの授業設計の中心的課題は、「理解させる」とは何を目指しているかを明確化し、どんな組み立てでどんな例を紹介すればその目標が達成できるかを考えることにあった。しかし、なぜアメリカの産業の特色を理解させる必要があるのかを考えると、日本の産業と比較するため、あるいは国ごとの産業を比較するためにはどんな点を比べればよいのかを理解させるため、といった次元が明らかになる。今までの授業設計を核にして、それを一つ上のレベルに連結させると、各授業の目標の位置づけや役割が明確になる。一歩上の目標達成のための手段として毎時間の授業の目標が存在することが確認できる。

この考え方をおしすすめると、授業の目標が単元の目標に、単元の目標が学年の目標に、学年の目標が教科の目標にと、一歩ずつ大きな目標に連結されていく。毎時間の授業を設計するときには、単元におけるその授業の位置づけを考えながら授業を設計する。単元の設計にはその単元の位置づけや役割を学年の目標に照らして明らかにする。そうすることで、大きな目標の棚上げを防ぐことができる。

ある授業における一つの目標が達成できないとき、さらに時間をかけてその授業の目標を達成できるように努力すべきか、あるいはそれを諦めて次の授業で別の角度から単元の目標に迫った方が(限られた時間で)効果を上げうるかを判断するためには、一歩上の目標に照らして考える必要があろう。木を見て森を見ずという罠に陥ることもなく、全体としてバランス感覚の優れた授業設計になるはずである。中学社会の地理的分野で、世界のx地域のうちy個だけ選択して扱うだけでよい、といわれても慌てることはないし、歴史的分野で教科書が2/3しか終わらずに大切な近現代史に触れられないという事態も避けられる。

micro design に macro design を加える

もう一つの考え方として、一つの学習目標についての授業設計と、より長期的な複数の目標の関連づけについての授業設計は質の異なる作業であり、別々の技法が確立されるべきであるとの立場がある。この立場では、前者をマイクロ設計、後者をマクロ設計と呼び、これまでの授業設計は単位授業時間や小単元(マイクロレベル)での技法を明らかにしてきたが、それに加えて、より長期的で大きな設計単位での技法(マクロ設計)が必要であるとしている。

マクロ設計理論の一つである「精緻化理論」を提唱しているライゲルースは、マクロ設計の原則を「ズームレンズ式学習法」に例えて説明している。すなわち、学習者にとって、ある絵をズームレンズを使ってのぞき込むがごとく、まず絵全体を眺め、その絵に描かれている部品とその関係を押さえてからある部品にズームインしてその詳細を学ぶ。一通りの学習がすむと、ズームアウトしてまた絵全体に視野を広め、今学習した部品の絵全体での位置づけを確認し、その次の部品との関連を見てから次の部品にズームインして進んでいく。その繰り返しで、全体での位置づけを振り返りながら各部品を学んでいくことになる。

ズームレンズ式の学習法を可能にするためには、これまでの一つの目標を効果的に達成させるためのものとは異なる次の設計技法が必要だとライゲルースは指摘する。

  1. 一枚の絵の骨格を際だたせ、徐々に複雑さを増加しながら絵の詳細を学習させるための教材の「ズームレンズ式」範例化と精緻化に関する技法
  2. 既習項目のまとめや復習のタイミングと方法の設計に関する技法
  3. 既習事項同士を関連づけてより理解を深めるための統合化技法
  4. 既習事項と新しい学習を関連づけるための比喩や例え話の活用に関する技法
  5. 学習者の学び方についての作戦(学習技能)を必要な時点で思い出させる技法
  6. 部品の選択や学習順序を子どもに任せる度合いを決定する技法

マクロ設計という観点から授業を捉え直すと、授業設計者が全体の構造を把握してから毎時間の授業を設計することに加えて、学び手である子どもにもそれを伝える工夫をすることになる。一つひとつの目標をクリアできたという喜びに加え、それが他の目標とどう関係していて、クリアできたことがどんな意味を持つものなのかを意識できることはとても重要である。マクロ設計を取り入れることで、「できるようにはなったけど、それで?」という先生任せの態度がなくなれば、ありがたいと思う。

情意領域の加味:双子目標

第3の提案は、授業に認知的な到達目標を設定した場合には、常にその目標に情意領域の双子の兄弟を追加するという「双子目標」の採用についてである。例えば、「分数の割り算ができるようになる」という目標には、「分数の割り算が好きになる」「分数の勉強を続けてやりたいと思うようになる」という意欲や態度の目標を双子目標として設定する。

この技法を提案したブリッグスとウエージャーは、目標を双子化することで、新しく学習することへの肯定的な感情や持続的な学習意欲を子どもに持たせることを意識した授業の設計にこころがけ、「できるようにはなったけれどもう二度とやりたくない」という状況を何とか避けるようにするねらいがあるという。双子目標を意識することで、認知的な目標の達成に必要な方法論を教えるだけの授業から、その方法論の背景的な情報を与えたり、どうしてその目標の学習が大切かを説明したり、目指す目標は同じでも子どもの関心に適した事例を探させたりといった「好きにさせる」「続けてやりたいと思わせる」工夫を凝らした授業に脱皮できると指摘している。

確かに、いかに「関心・意欲・態度」が強調されようとも、また「意味も分からない詰め込み」を非難しようとも、認知的な目標達成への援助を抜きにして、授業を好きになって、やる気を出して、と強要するわけにはいかない。楽しい授業を過ごせたとしても、実力がつかなくては本当の意味でその勉強が好きになることは難しい。そうであれば、「できるようにさせる授業」を効果的に設計するというこれまでの授業設計へのアプローチを核にして、嫌いにさせないための工夫を折り込んでいくという双子目標の提案も、妥当なものと言えよう。

認知的な目標とともに学習意欲の育成を授業の目標と考えて授業設計の技法を提案する研究も、「動機づけ設計」の領域として確立されつつある。ケラーの提唱するARCSモデルがその代表であるが、今後も組織的な研究の積み重ねが必要な分野であろう。うわべだけの魅力より中身に裏打ちされた魅力を授業に実現するために、さりとて授業をひたすら耐え忍ぶものとしないために。

授業設計から学校改造論へ

「もう一つの授業設計」として、最後に近年関心が高まっている学校改革に触れておきたい。日本の学校よりもより多くの問題を抱えると言われるアメリカにおいて、「2000年のアメリカ」政策がブッシュ政権時に開始された。技術革新の成果を活用して現在の学校の問題点を解決する未来型学校構築のための実践研究がスタートしている。これまで教材や授業の設計に関心を寄せていた教育工学の研究者が、学校そのものの改革に積極的に発言し、また実際に試験的なプロジェクトを全米各地で指導している。

全世界的に共通点が多い現在の学校の在り方は、産業主義の工場労働者育成という時代的背景を起源としていることが、例えば社会学者のトフラー(「第3の波」の著者)によって指摘されている。いわゆる産業主義の学校では、良き市民でなく良き労働者を育ててきたという。先生を将来の会社の上司に、授業を将来の職務になぞらえて、従順で、時間を励行し、機械的な反復作業に耐えうる集団主義の良き労働者を社会に排出してきた、という指摘である。

これは、学校で働く教師が産業主義の観点から、良き労働者を育てるという意図をもって授業にあたってきたという指摘ではない。また、学校が時代の要請に応える形で社会発展に寄与してきた事実を過小評価しているものでもない。しかし、学校では、子ども自身の発想よりも与えられた内容の暗記を重視し、授業中は静かに教師の説明に耳を傾け、チャイムとともに授業内容が定められた時間割どおりに移っていく。いわゆる学校の授業の常識的な在り方の中に「隠れたカリキュラム」として潜む流れが、学校を巣だっていった若者の知識観、学習観、あるいは学校観の形成にボディーブローのような効き目をもっていることを否定するのは難しい。

「情報活用能力」の育成とか、「関心・意欲・態度」の重視とかの施策は、これらの反省の上にたって、未来の社会を担う子どもたちのために打ち出されたものであろう。それならば、現在の学校そのものの在り方や授業の常識を、時代的な背景に遡って吟味する必要があろう。基礎基本の知識理解を目指して与えられたものに自分の好みを押さえてでも取り組んでいく経験を積ませる、といったこれまでの学校が果たしてきた役割は、どうなるのだろうか。また、そのために相応しいものとして機能してきた学校や授業の常識は変えなくてもよいのだろうか。

学校改革論に取り組む研究者が目指しているもう一つの授業設計は、授業内容の効果的な指導方法の設計という次元を越えた、授業を取り囲む学校や社会、あるいは時代的な要請の吟味である。それは、直接目指すものと醸し出すものとの違いと言っても良いものなのかも知れない。

当然のことながら、この吟味の過程を経て提出される新しい学校のモデルを具体化するのは日々の授業実践であり、そこで選択される授業目標や授業方法の積み重ねである。伝統的な授業設計の合目的的なアプローチは、新しい学校モデルの場合にも等しく重要である。しかし、目的の妥当性を様々な観点から吟味する作業も、ますます重要性を増していると思われる。