1996.6.特集『放送とTTを組む授業実践』

ティーム・メイトとしての放送番組


東北学院大学助教授 鈴木克明



1.これもTT、あれもTT?


 ティーム・ティーチング(TT)と聞いてまず思い出すのは、仙台市立松陵小学校3・4年生の「はりきって体育」を使った学年合同授業である。第44回放送教育研究会全国大会(宮城大会)の公開授業の一幕であった。めあてに応じた学習をテーマにして、難易度の異なる3つのマット技(3年)と鉄棒技(4年)のビデオを各々1台ずつ、体育館とオープンスペースに配置し、同学年の担任3人でTTを展開した(鈴木、1995b)。何人かの子どもたちがかわるがわるにビデオの前にやってきて、自分の取り組んでいる技のコツを録画した番組を部分的に再視聴しながら確認している様子が印象に残っている。教師はそれぞれの技を分担し、マットや鉄棒のかたわらで、実技練習の補助にあたっていた。

 松陵小学校は、広い廊下と開閉式の壁、天井から差し込む日光が演出する明るいオープンスペースといった、いわばTTを前提としたオープンスクール方式の校舎を有している。放送教育全国大会の会場校を引き受けたときにも、それまでの研究経過から自然に発展して、TTを取り入れた放送利用授業を組み立てていった。それぞれの技に取り組む子どもたちにとっては、番組から直接教わる場面と、教師に見守られながら技を練習する場面が自然に組み合わされていた。

 TTで授業に取り組むことが気軽にできる一致団結した校内体制にあったことは、時折訪れる筆者の目にも明らかであった。しかしながら、TTが日常の授業であたりまえに行われているのかといえば、必ずしもそうではないようであった。やはり、学級担任制はそれだけ日本に根付いた方法論のようである。

2.ブリッグス先生の急逝と3人前TT


 筆者がフロリダ州立大学留学中に、視聴覚教育の大家ブリッグス教授が現役のまま急逝された。ブリッグス教授が担当する大学院博士後期課程の研究法ゼミを受講中の出来事であった。教育工学の産みの親の一人ガニェ教授とともにブリッグス教授は、筆者が留学先にフロリダ州立大学を選んだ理由そのものであり、とても楽しみにしていたゼミ開始直後だけに誠に残念でならなかった。葬儀は、大勢の参列者を集めて厳粛に行われた。

 次の週、研究法ゼミがどうなるのだろうという思いで出席したところ、そこには筆者の論文指導主査を含む3人の若手教授が揃ってわれわれ受講生を迎えていた。いわく、「ブリッグス教授のゼミの後任は、我々3人で引き受けることにしました。だれがやるにしても、一人で引き継ぐには余りにも前任者の代役は重荷なので」。その日から、毎回3人揃い踏みでゼミが続けられた。これもTTといえるものだろうと、今振り返って思う。

 もしかして、TTの導入に否定的な見解をお持ちの先生方の中には、TTは一人前の教師には不要であるとの思いがあるのかもしれない。自分一人でできているのだから、他人の手助けはいらない。TTを必要とするのは、半人前の教師だからだと。放送番組を使わない論理にも、通じるものがあるのだろう。

 ブリッグス教授は、若手教授3人前の働きをしていたと評価されたわけである。学生にとって何が最良なのかを考えれば、他人の手助けはいらないという消極的な態度はブリッグス教授のような「3人前」の実力をつけてからにしたいものだと思う。

3.総合科目でのオムニバス方式TT


 筆者の勤務先では、教養学部の専門科目の一つに総合科目が置かれている。最新のトピックスを複数の教員が担当する科目であり、筆者はインターネットを取り上げた今年の総合科目のコーディネータを務めている。ここで採用されている方法は、オムニバス方式といわれるものである。つまり、通年30コマを担当の7人で分担し、一人当り3〜4回の講義を順番に担当していくのである。これも、一種のTTと言っていいのだろうか。

 この方式は、様々な角度から専門領域が異なる担当者の話を聞けるので、一人ですべての講義を担当するよりも間口が広がるという利点がある。実際筆者一人でインターネットのことについて解説するよりも、その道の専門家に語ってもらった方が講義の質は高まる。担当者の専門領域は、心理学、社会学、天文学、ソフトウェア工学、ドイツ語学、倫理学と多岐にわたり、同じ内容を筆者一人でカバーすることは不可能である。

 しかし一方で、担当者の意思疎通が図られない場合、いわゆるコマギレで脈略がないものになってしまうという落し穴がある。担当者がお互いの講義内容を知らないままに次の話を始めることが続くと、内容の重複が出たり、また基礎的な内容を扱わないうちにそれを学んだものと仮定してしまうなど、かえって混乱を招く危険性がある。もっとも、それを何とかするのがコーディネータである筆者の役務ではあるが。

 この事態は、大学のオムニバス方式の講義に限らず、教科担任制の中学校や高等学校において、生徒が体験するものに通じるのではないか。教科の枠を超えて、お互いにどんなことを教えているのかに気を使わずに授業を進めると、数学と理科などの関連性がある教科の授業同士がうまく連携をとることは難しい。数学的な知識技能を前提として理科の授業が成立する、あるいは社会科の教科書を読むために国語力が必要となる、という事態は、それを学んでいる生徒が同一人物であることを踏まえれば、当然のことである。たとえ、教えている教師が教科担任制で別人物であるとしても、相互に配慮が求められるところだろう。つまり、授業を一緒にやることだけが、TTではない。放送番組を授業の流れと無関係に用いる場合にも、このコマギレTTの危険性をはらんでいる。

4.TTとテレビ


 TTの歴史が語られるとき、決まって登場するのがレキシントン・ティーム・ティーチング・プログラム(LTTP)である。昭和32年に米国マサチューセッツ州フランクリン小学校で始まったもので、職階制・複数学年制・大小グループ編成を含む実験であった。そこでは、教師不足への対応、専門性の発揮、現場での教師養成、学校の大規模化対応、教育内容の変化対応、個別化対応などの問題を解決し、学習指導の向上を目指していた。それに加えて、大集団授業を可能にするテレビなどの出現や反対に個別授業を支えるティーチングマシンなどの出現などの技術的な革新に対応するといった時代的な要請があったという指摘が、放送教育にとって興味深い。

 新しく利用可能になった教授方法の利点を生かすためには、子ども40人に教師1人を固定した在り方を見直すことが求められていた。より積極的にこの事態をとらえるならば、様々な教授体制を可能にするメディアが導入され、その適切な組み合わせ方法を模索していたといえる。これは、「力を入れるところと力を抜くところを組み合わせる」といった発想である。例えば、40人学級が3つあったとして、それを20人学級を6つにして教師を6人配置せよと要求してもそれは早急には実現しない。3人の教師で何とかするならば、80人を一つの部屋に集めて一人の教師が面倒みながら授業をすることを考えて、その間に残る40人を2人の教師でよりきめ細かく見ていこうという発想である。これならば現状の3人の教師で実施できる。ただし、80人が一度に入る教室があればの話になる。

 「大集団授業を可能にするテレビなどの出現」がTT導入の背景にあったにしては、放送教育がいつも40人を相手に実施されてきたのは何故なのだろうか。教室がそう設計されているせいなのか、それともテレビモニターの大きさのせいなのか、あるいは、放送教育では学級単位の視聴が暗黙の了解になっていたせいなのだろうか。冒頭で紹介した松陵小学校でのTTでは、放送番組をビデオに録画し、見たいときにみたい子どもが自分で操作して繰り返し視聴する形態をとっていた。大集団授業よりもむしろ、個別授業を支えるメディアとして、個人差に対応する位置付けであった。これからも、個別視聴・グループ視聴のような形が中心に模索されていくことになるのかもしれない。

 もしも20人の子どもが放送番組を視聴しながら独力で学習を進めていければ、教師は残る20人の指導に集中できる。これは、学級内・教師1人によるTT(的な授業)であり、教師と放送番組とのティームが編成されることになる。放送番組のみならず、図書室の書籍や、コンピュータ教材、あるいはインターネットを使った情報検索などを加えれば、さらにこの形でのTT(的な授業)に関わるメンバーは増えることになる。誰も賛同してくれないときにも、メディアを相手にしてTTは実現可能ということだろうか。

5.教育改革運動としてのTTと放送教育


 米国でのLTTPの動きなどが伝えられた昭和40年代は、日本におけるTT研究・実践の高揚期であった。精力的な先駆的試みが各地で進められる一方で、それが日常の授業の在り方を根底からくつがえすという事態には至らなかった。昭和59年には、義務教育諸学校施設費国庫負担法施行令一部改正により、小・中学校のオープンスペース化が進み、新しい試みを実施するための新しい皮袋が用意される。しかし、学級王国を基調とする授業体制が続いて今日に至っている。それほどまでに、とりわけ日本では、普通の教室での普通の授業が定着しているのである。平成5年度の教職員定数の配置改善計画実施、いわゆる加配教師制度の導入により、従来よりも多様な形でのTTが実施可能になり、また、新学力観の提唱に基づいて「指導組織の弾力化・柔軟化」(児島・三浦、1994)が強調されるにいたり、再びTTが注目を集めている。果たして今度の挑戦は、日常の授業に変革を迫るのであろうか。

 長年にわたって日本におけるTT研究・実践を指導してきた加藤(1993)は、現在の学校運営の体制である「1学級1担任制」を「ある特定の『一人』の教師に指導を全面的に任せてしまっている体制」であり、「そこでは教師は全権をにぎっていて、他人のいかなるアドバイスも届かない(p.12)」学級王国であるとする。丸がかえの閉鎖性はマイナスに作用する危険性があり、いじめや学校への不適応、「授業についていけない」と訴える子どもたちの増大への対応策として、「『一人』の教師に指導を任せるあり方から『複数』の教師による多角的・多面的な指導へと改めていくべきである(p.12)」と主張する。

 黎明期の放送教育も、学級王国への挑戦であった。丸がかえの閉鎖性を解き放ち、教師すらも知らない情報を送り込むことでその先どうなるかわからない緊張感と期待感を実現した。一人の教師に指導を任せるという在り方から、他の視点、つまり番組を制作したディレクターの視点を加えた多角的・多面的な指導を目指していた(鈴木、1995b)。これは、まさにTTの主張と軌を一にしている。それは、両者が授業の在り方に見直しを迫る教育改革運動としての側面をもっているからに他ならない。かつて学校に変革を迫ったTTが今日再び注目を集めている。放送教育の昔がどうであったのか、それを今日的な課題解決にどう結び付けることができるのか、温故知新の時期でもあるということだろう。

6.TTと放送教育の見直し


 加藤(1993)のTTについての次の指摘は、そのまま放送教育の見直しに援用できる。そこでは、人間教師とティームを組むという発想にならって、放送番組とティームを組むという視点が求められる。そのことはとりも直さず、放送番組を制作したディレクターとティームを組むことを意味する。


参考文献
加藤幸次(1993)「現代の教育課題とティーム・ティーチング」『ティーム・ティーチング読本(教職研修総合特集101)』 教育開発研究所、11-16
児島邦宏・三浦健治(編)(1994)『小学校 個を生かす教育とティーム・ティーチングの実際』教育出版
鈴木克明(1995a)『放送利用からの授業デザイナー入門』日本放送教育協会(放送教育叢書23)
鈴木克明(1995b)「学校教育改革運動としてのメディア教育—放送教育とメディア教育を例に—」日本教育方法学会編『教育方法24 戦後教育方法研究を問い直す』明治図書、201-209