『児童心理』1997年4月号臨時増刊
特集「やる気を引きだす学習環境づくり」
縦書き、48字×19行(合計100行)

わかる授業を設定するコツ:コンピュータを活用する


鈴木克明




コンピュータでやる気を引きだす? 〜引きだすだけではダメだ〜


たいていの子どもはコンピュータが好きだ。テレビが好きなように、コンピュータも好きな子が多い。どんなに面白くない勉強でも、コンピュータを使うというだけで、たちまち子どものやる気が出る。こんなうまい話が、コンピュータを使った授業の報告によく登場する。でも、あまり長続きはしないようである。

子どもがコンピュータを友だちにしてしまう能力は、大人よりも秀でている。それが逆に先生たちのコンピュータ嫌いを助長しているのは皮肉なことだ。コンピュータを使った研究授業を、というとたいていの先生は身構えてしまう。子どもに格好の悪いところを見せたくないのだろうか、素直に子どもに教えてもらえばいいのに…(先生にいいところを見せられるチャンスほど子どもをやる気にさせるものが他にあろうか?)。

ここでは、学びへの意欲を考えるための枠組みとして便利なジョン・ケラーのARCSモデル(1)(2)にしたがって、コンピュータとわかる授業とやる気の問題を考えてみる。ARCSモデルは、これまでの心理学などの研究成果を授業や教材の計画と評価のためにまとめたもの。私がARCSから学んだことは、やる気は引きだすだけではダメで、引きだしたらそれを受け止め、育て、次のやる気につなげる必要があるということ。メッキはすぐに剥がれる。学びのほんとうの喜びを感じられる環境を用意するために、「助っ人」として活用しましょう(3)。

コンピュータは目先を変えるための道具か? 〜手品論〜

「今日はコンピュータを使って授業をしましょう」と言えば、それだけで子どもたちの歓声が期待できる。それは、多くの場合、まだ目新らしくて非日常的だからである。これを、「新奇性効果」という。見慣れないものが教室にあるだけで「これなあに?」。ARCSモデルでは、これを「注意」(Attention)の側面という。注意を引くために、コンピュータはまだまだ使える。「え〜、またコンピュータ使うの」と言われるまでは。

注意を引く道具として使い続けるためには、非日常的なものとして温存しておくのがよい。ここぞ、と思うときにコンピュータを登場させる。集中管理のコンピュータ室の割り当てが週一回程度ならば、この手でしばらくはやる気を刺激できる。もしももう少し恵まれた環境で、毎日のようにコンピュータが使える場合には、同じコンピュータでも「この箱からは何が飛び出すかわからない」と思わせるだけの毎回違ったネタを用意しよう。手品は何回見ても不思議なものだが、どうせならば違う手品を見たいというものだ。

コンピュータは苦い薬のためのオブラートか? 〜言い訳論〜

子どもがそんなに好きならば、一番いやがる勉強をコンピュータでやるといい。「これをやるのはいやだけど、コンピュータでやるなら」と思ってもらう。良薬口に苦しであるから、コンピュータというオブラートに包んで飲ませてしまおう。どうせやらなければならない勉強、少しでもプロセスを楽しもう。これをARCSモデルでは、「関連性(やりがい)」(Relevance)の側面という。つまらない内容の勉強をゲーム化して楽しんだり、班ごとの競争にしたり、あれこれとプロセスを楽しむ工夫はある。その中の一つにコンピュータを加えようという寸法だ。

最近ゲーム仕立ての学習ソフトが人気を集めている。エデュケーションとエンターテイメントをあわせて「エデュテイメント」という造語まである。たとえば、物語の先を読みたければ、唐突に登場する「算数バトル」に勝たなければならない。計算はいやだけど物語の先は見たい。そうこうしている間に、計算力が知らず知らずについてしまうというねらいだ。「だまし討ち」ではあるが、算数嫌いを自称する子どもが算数の問題を一所懸命に解く自分の姿に嫌悪感を覚えるよりも、「これはコンピュータゲームだ」と自分に言い聞かせるためには有効かもしれない。

コンピュータは子どもの出世への早道か? 〜親の欲目論〜

「関連性(やりがい)」の側面にはもう一つ、目標の意義感という要素がある。「何のためにこんな苦労を今しなければならないのか?」という素朴な疑問は、たいていの場合「学校でやることだから」とか「受験に出るから」という答えにならない答えで納得できずに葬り去られる。学校でやることだから退屈でも仕方がないのではなく、学校でやることだからこそ学ぶ事柄そのものにやる意味が存在するはずである。学校で教わることが、点数をとるための道具としてしか目に写らなくなったのはいったいいつからなのだろうか。

小学校段階でのコンピュータ利用の目標は、「触れ、慣れ、親しむ」ことだという。世の中どこへ行ってもコンピュータが使われている。せめて「コンピュータ不安症」を取り除いて抵抗なくコンピュータを使った仕事をやってもらおう、というわけなのだろうか。平成九年度入試から、センター試験に「情報関連基礎」が取り入れられた。社会に出てから困らぬように、という大義名文に加えて、受験に有利になるからという意義づけも与えられた。小学校ではコンピュータのことは教えないであくまでも道具として使う、と文部省は位置づけているが、現在中学校の情報基礎で教えているような応用ソフト(ワープロや表計算など)の使い方ぐらいは小学校のうちから習わせておこうとする動きが出ても、それは決して不思議ではない。子どもの出世を願わない親はいないのだから。

コンピュータは家庭教師の代役か? 〜極秘学習論〜

街のコンピュータショップに出かけてみると、ところ狭しと「学習用ソフト」が並んでいる。予備校や通信添削塾などの手によるものである。これを購入してやらせれば、家庭教師を雇うよりは安くつくのだろうか。それとも、誰にも縛られずに、一人でこつこつと進めることが世相にあっているのだろうか。この種の学校外の教育機関が作成した家庭向けの学習用ソフトが、学校のコンピュータ室に並んでいるのを目にすると、何か複雑な気持ちになる。もしも個別学習の指導についてのノウハウが学校よりも塾にあるとすれば、そこで作られたソフトを見ることで学校の先生方も何か得るものがあるはずだ。何からでも学ぶ姿勢は、子どもにだけ求められているものではない。

ARCSモデルでは、動機づけの3番目の側面を「自信」(Confidence)としている。明確なゴールを設定し、一歩ずつそれに近づくことによって、この次も「やればできそうだな」、自分も以前に比べるとずいぶんとできるようになってきたな、という気持ちになる。これがやる気を支える「自信」の側面である。コンピュータ上の家庭教師役ソフトでは、誰にも気がねしないで、ていねいな説明を何度でも繰り返し見ることができる。ここまでは参考書でもできるが、コンピュータは問題を解く場面で威力を発揮する。自分にあったレベルが選択できたり、苦手な箇所を集中して出題したり、間違いの種類に応じて解説や次の問題を選んでくれるようなコンピュータの特長をいかしているソフトならば、なおさらだ。自信をつけるためにコンピュータを使う、という目標は、悪くない。

学校の先生の多くは、説明はうまい。しかし、四十人も抱える子どもたちの達成レベルは違う、スピードも違う、誤解している中身も違うとなると、お手上げになる場合も少なくない。とにかく説明をして、「あとは自分で身につけておきなさい」では、教科書は一通り終わったとしても子どもが学んだかどうかは定かではない。一度分かったとしても、すぐ忘れるのが人の常、辛抱強くつきあうのも大変だ。こんなときは、コンピュータのがまん強さが強力な武器になる。なかなかできるようにならなくても、一度覚えたはずのことを忘れたとしても、コンピュータは文句一つも言わずに付き合ってくれる。先生が「平常点」という名の下に学習履歴を悪用さえしなければ、子どもは何をはばかることなく間違いの中から一歩ずつ学びを深めることができる。ごく単純なドリルだって、使い方一つで値千金、コンピュータの機種の古さを恨むこともなく、それなりに活用できるというものだ。

コンピュータは馬の鼻先のニンジンか? 〜ごほうび論〜

ARCSモデルでは、学習意欲の持続に必要な側面を「満足感」(Satisfaction)という。ひとしきり努力した結果を自分で評価して、「やってよかった」と思う気持ちである。満足感が得られれば、次もやってみるかという気になる。逆に不満が残れば、もう二度とやるものかと思ってしまう。子どもは傷つきやすい存在なのである。子どもが信頼して努力できる安心感が教師に求められるのは、せっかく苦労してやってきた宿題を集めてくれないといったような些細な体験が満足感を損ね、二度と立ち上がれない程のダメージを子どものやる気に与えるからである。「自分はいくらやっても先生は認めてくれない」というえこひいき感も、満足感に重大な影響を与える。

子どもがコンピュータを好きならば、「これができたらコンピュータをやらせてあげる」といった作戦が可能となる。ごほうびを鼻先にぶらさげて、さあ走れ、という類の用い方だ。「テレビが見たいなら、宿題を先にすませなさい」などと頻繁に使われる常套手段ではないか。この種の外から与えるごほうび作戦は、ただ終わらせることに意識を向けさせてしまい、いったい何を学んだのかを忘れさせる副作用も兼ね備えている。そうなると学びは単なる手段としてしか存在せず、この仕事は給料をもらうために仕方なくやっているという状態と同じになる。

もし本当の満足感が得られるとすれば、給料は安くても「やってよかった」と思える仕事、ということになろう。であれば、学びの場合も何を学んだのかによって満足度が変わるような、中身が問われる場面を設定しなくてはならない。これをARCSモデルでは、満足感の中の「自然な結果」の要素と呼ぶ。今まで学んだ結果として、こんなに高度な応用問題が解けるようになった、これとこれをくっつけると、新しいことが理解できた、などという実感が得られたときに、もたらされる満足感である。飴もシールもいらない、次からのやる気につながる満足感だ。

もっとましな使い方ってないの?

コンピュータは素晴しい可能性を秘めた学習のための道具のはずだ、もっとましな使い方はないのか、ですって?ありますよ、まだまだたくさん。どんな道具でも同じことではあるが、コンピュータをよりよく使うためには、使う人のセンスが要求される。素晴しいセンスをもった小学校の先生たちの実践記録(4)(5)(6)を読んで、センスを磨くこと。これがコンピュータ活用への王道である。
(すずきかつあき・東北学院大学助教授)


参考文献(巻末注記<かっこ書き数字>)
(1)鈴木克明「八章 メディア教育への動機づけ」子安増生・山田冨美雄編著『ニューメディア時代の子どもたち』有斐閣教育選書、一七六〜一九六頁
(2)鈴木克明「おもしろ算数授業を広めましょう〜教育工学者が連載を振り返る〜」(連載:マルチメディアで授業を変える第十一回)『算数教育』一九九七年二月号一一一〜一一五頁
(3)鈴木克明『放送利用からの授業デザイナー入門』(放送教育叢書二三)日本放送教育協会、一九九五
(4)戸塚滝登『コンピュータ教育の銀河』晩成書房、一九九五
(5)中川一史『マックが小学校にやってきて、子どもたちはどうなったのか?』アスキー、一九九五
(6)苅宿俊文他『コンピュータのある教室〜創造的メディアと授業〜』岩波書店、一九九六