(財)日本放送教育協会(1996)『マルチメディア時代の番組・教育ソフト研究報告 書(1年次)』NHK学校放送番組部からの受託研究、分担執筆

2 利用促進とは何か:番組利用の質的促進システム



2ー1 利用促進と利用率


 利用促進とは、一般的には、少しでも多くの人に番組を利用してもらうための方策を考えることを意味する。具体的には、番組利用率などの指標の上昇に現れるものであり、これはいわゆる量的な利用促進、水平方向の延びを示す。商業放送ならば、それでいいであろう。
 学校放送番組の利用促進の目指すところは「なるべく多くの教師になるべく多くの番組を利用してもらう」ことなのか。利用者を増やすといっても、とにかく使ってくれればそれでいいのか、それとも、もう少し高度な利用法を広めていきたいと考えているのか。制作者が準備を怠って番組を流したときに「怖い」存在になるような教師の輪を広げたいのか、それとも番組の良否にかかわらずにとにかく使ってくれるお客様でいいのか。現在の番組利用者の中に、制作者が望むような、番組の可能性を最大限に引き出してくれるような利用をしてくれている教師がどの程度の割合で存在するのだろうか。
 利用促進の諸策が必要とされる背景には、利用率の低下という実態があることは明らかである。学校放送番組の存続、ないしは放送時間枠の確保という観点からは、この数字が大きな意味を持つことは理解できる。しかし、制作者の立場に立つときに、あるいは放送教育の促進に教育変革の期待を抱く者にとっては、利用率の向上だけでいいのだろうか、という疑念を抱かざるを得ない。利用促進の目指すところは量的な拡大ではなく、質的な深化なのではないだろうか。
 番組提供・利用の量的な拡大という観点からは、放送教育が時代の花形であったかつての状況を再現しようと試みることは非現実的であり、マルチメディア時代に向かう方向ではない。全てのことを放送でカバーしなくても、他により効果的な方法が多数存在するからである。授業における放送教育の果たす役割は相対的に限定・縮小されてきており、いかなる利用促進の方策をもっても放送利用を主たる授業方法の座に返り咲かせることは不可能であると断言してよいであろう。だとすると、利用促進の目指すところはいったい何なのか。


2ー2 学校教育改革運動と現場適合の論理


 黎明期において、放送教育は学校教育に「風穴を開けてやろう」という野心を持った学校教育改革運動であった。いわゆるジャーナリストの批判的な目で世界を捉え、番組を制作していたという。
 しかし、放送教育が時代の花形になり、他に類を見ない高利用率を達成するに至り、改革運動としての勢いは失速した。放送番組の利用者の多くは、変革を望んではいなかったからである。昭和30年代の「学年別編成」による放送教育の大転換は、法的拘束性が打ち出された学習指導要領の公布とも相まって、学校現場への適合がその背景にあると指摘されている。『放送教育五十年』によれば、科学番組も「豊かな科学的教養を高校生に」という理想が、高校受験体制、学力向上というスローガンのもとに消えていくことになり、『科学の目』という番組がより教室カリキュラムの濃くなった理科教室の拡充時間帯に吸収されていったとしている。
 放送される番組自体が学校教育に変革を迫るメッセージを秘めることをやめてしまえば、教育改革運動としての役割を果たすことはできない。一方で、メッセージが込められたものは現場から「使いづらい番組」と評されて利用してもらえない。あまりに多くの利用者を得たがために、変革を望まない多数派の要望に従った番組を流すことになっていったのである。
 自らがディレクターとして現場の要求に則した番組づくりを強いられたと述懐する児玉は、「視聴覚教材として圧倒的なシェアーをもっていた状況の中では、『最大多数の最大幸福』を考えざるをえなかった。しかし、現在は幸か不幸か『ワンノブゼム』になってしまった。もう現場適合の論理から訣別してもよいではないか(p.35)」と主張する(児玉邦二 1990 「放送教育は”運動”か”研究”か—放送教育の温故知新—」『放送教育研究』 第18号 34—37)。みんなに使われる番組がよい番組である、という解釈は容易である。しかし、求められるもの=流すべき番組なのであろうか。多くの教師に求められなくても流すべき番組はないのであろうか。利用率の低迷を打破しようとする故に、流すべき番組と求められるものとのギャップを意識できなくなると、もはや放送教育の先進性は失われることになる。新しいものを求めるのはどの社会でも始めは少数派である。学校現場の保守性を考慮すれば、求められるものをつくることへの限界が明らかなのではないだろうか。


2ー3 マルチメディア時代における放送教育の先進性


 放送教育が目指した改革の路線がマルチメディア時代においてもはや時代錯誤のものであるならば、新たに「流すべき番組」が何であるかを発掘しなければならない。しかし、放送教育がかつて目指した改革の路線は、30年前と変わらず新しいものである。
 伝統的な学校教育にカウンターパンチを与える教育改革運動としての問い掛けを込めながら、放送番組は送り出されていた。すなわち、それは、過去形の知識を完璧に把握した教師によって予定調和的に伝達が行われている教育の「聖域」を社会に開き、現在進行形の情報を教室に直接送り込むことで教師を子供と同じ受け手の位置に立たせ、知らないと赤裸々に言える教師像、知識量の優位性ではなく問題解決能力で子供をリードする教師像を追い求める運動であった。この試みは、皮肉なことに放送教育があまりに利用されたがために未だに実現できていないが、マルチメディア時代を目前にした現在の学校教育改革の課題そのものとして残っている。
 当時の学校放送番組の利用についての指針を提供した文部省の手引き書『学校放送の利用』にも、この改革運動としての放送教育の性格が読み取れる。とりわけ、「学校放送の利用において、教師にどのような役割や心構えが望まれるか」という質問についての回答が興味深い。当時の学校放送の導入が意味した事態が今日の指導要領改訂と新学力観の提唱で再現されていることがよくわかるからである。この点を指摘して「学校放送からの教え」が現在の教師にも当てはまると主張する文部省の多田は、「マルチメディアが、授業改善の有力な手段となるとともに、とかく閉鎖的になりがちな教室を開放するきっかけとなり、教師の優れた協力者となることを願って止まない。(p.88)」とその著書を締めくくっている(多田元樹 1995 『<マルチメディア>で学校はどう変わるか』 明治図書オピニオン叢書18)。
 学校放送番組の利用促進が単なる数合わせを越えたこれからの時代への放送教育の貢献を模索する営みであるとするならば、かつての放送教育に学ぶことが少なくないと思われる。30年も前から、マルチメディア時代への学校改革を、放送教育は予言していたからである。


2ー4 利用促進がなぜ必要か


 今、利用促進の諸策が必要であるとするならば、学校現場における次のいずれかの事態に対応するためと考えられる。
  1.  よい番組が流れているにもかかわらず、教師がそれを知らないために使っていない場合。教師が授業のネタを求めていて番組がよりよいネタになるならば、多少の困難があっても気づきさえすればそれを使う努力を惜しまないであろう。この場合必要なのは、番組情報の普及である。
  2.  教師が番組に接したとしても、それを見ただけでは番組のよさに気づかない場合。放送を利用して授業を創造した好例に接することによってその番組のよさがわかるならば、番組の存在を知らしめることよりも授業実践の模範例を示す必要が生じる。この場合必要なのは、現職教員の再教育である。
  3.  教師が番組のよさに気づいており本当は使いたいにも関わらず、現実的な制約で使うことが不可能な場合。放送利用のための諸設備の絶対数とその使い勝手などが不十分であるならば、利用条件の向上をはかる必要がある。この場合必要なのは、予算的措置と利用システムの確立である。
 上記の3点のうち、3の設備については、文部行政の主力が情報機器の整備に移行した現在、短期的には熱心な教師による私的な工夫が、また長期的には技術革新によるインフラの整備が、障害を取り除いていくものと思われる。残る1、2の問題点の解決には、「先導的な教師には番組情報を、追従的な教師には授業実践例を」というスローガンを掲げることができる。
 制作者側から見たときに利用促進の諸策が求められる事態であるとすれば、冒頭で述べた学校放送番組の放送枠を確保といった教育放送自体の死活問題に加えて次の状況が考えられる。
  1.  あまりにも利用されないために、番組制作の方向性を見失っている。何を作ったら授業の役に立つのかがわからない。これは、教育放送のアイディンティティ喪失の危機である。本研究会の番組内容への提案によって、この点は解消へ向かうことが期待されるが、たとえ方向性が見えたとしても、それが量的な利用促進という点からは即効性を持たないことは覚悟しておかなければならないであろう。
  2.  あまりにも利用されないために、制作者がやる気を失いつつある。これはどちらかと言えば、量より質の問題であろう。現場との少数ながら太いパイプを維持することによって、またその相手に「鬼」のように厳しい教師集団を選ぶことによって、切磋琢磨することが可能となる。


2ー5 番組の質向上か利用促進の方策か:利用質の向上


 言い古されていることではあるが、放送教育のかなめは番組の質である。よい番組が作られているかどうかを確かめるためには、学校現場での反応を見る前に、次の点を重要視すべきである。すなわち、
  1.  制作者が勉強しているかどうか
  2.  制作者自身が番組の出来具合に満足しているかどうか
 学校現場において、良質の番組が使われないことはよくあることである。使ってもらうことを考える前に、これはいい番組である、と自信をもって宣伝できる番組をまず作ることである。制作者が自信をもって宣伝する番組を携えて研究会などで教師と接触する。その結果として、教師を「これは私も使ってみたい」という気持にさせることができなければ、上記の2条件は満たしていないと考える。本当によい番組であれば、番組ファンを捕まえることができるはずである。よい番組ができていないとすれば、その制作のプロセスを再検討し、番組づくりに力を注ぐ。力を注げるような環境を整える。
 まず、放送教育を熱心に進めている教師(少数派)を視野に置き、学校教育番組が今何をなすべきかを考え、べき論に基づいて番組を作成する。恐らく、速攻的な利用率の向上は見込めないであろう。一部の「心ある」教師が歓迎する番組であると同時に、現代的な要請に答えうるものを目指す。しかし、利用率の向上をもって利用促進が成功したとは解釈しない。質的な利用促進、一部の教師が深く番組を利用し、放送教育の可能性を理解し、すぐれた授業を展開できるようにする。垂直方向の深まりを目指す。
 利用質をまず高める。それによって、放送番組利用の核となる教師を地道に育てていく。一般(未利用者・未理解者)への普及・啓蒙は、核となる教師の授業実践の公開・紹介を介して行う。
 一方で、その過程においては、子どもの直接視聴を意識した番組構成を考える。子どもに直接訴えかけ、子どもの視聴後の探索・思考活動を刺激する要素を盛り込む。このことは、広がる家庭視聴への対応となるばかりでなく、教室での番組利用の質を高めると思われる。教師がたとえ「採点の時間を潰す」ために番組を視聴させたとしても、番組からの直接的な意欲喚起により、教師が予想した以上の効果を子どもにもたらすことを狙うのである。放送利用に未接触であった教師でも、番組からの子どもの反応を目の辺たりにして、放送常用者へと変貌していく可能性を期待したい。
 利用質の高まりは、放送教育研究会の自由参加者数の増加と話し合いの白熱ぶりに現れるだろう。利用者数がいくら増えても、中核となる研究会が充実しないようでは質は高まらない。一方で、利用率は変化がなくても、熱心な教師が少しでも増えれば、利用質は高まる。組織ぐるみの動員以外の参加者数が増えることを利用質の高まりの指標として目指すことは妥当であると思われる。
 また、利用質が高まれば、放送教育以外の研究会での放送利用を含む公開授業数や研究発表数の増加ももたらすだろう。学校における放送教育以外の研究会の活動は多種多様な分野でとても頻繁に行われている。とりわけ、各教科部会の活動がその中核となっている点は重要である。放送教育が校種や教科の壁を越えて応用可能な教育方法を模索することは有意義なことであるが、教科部会の研究に影響をあたえて初めて市民権を得たと解釈すべきである。放送利用が質的に深まれば、それぞれの教科部会でも無視できない存在となり、取り上げられることも多くなるであろう。

(制作システムへの提言<秋山>をここに入れてもよい)


3 利用促進の方策への提言



3ー1 利用拡大の契機


 よい番組を作ってそれを放送したからといって、それは直接利用拡大へはつながらないと考える必要がある。そこに、利用促進のための諸策が求められる理由がある。学校で利用が拡大する契機としては、これまで次の二つのどちらかによる場合が多かったと考えるべきであろう。
  1.  熱心な同僚に勧められた場合
  2.  放送教育の研究指定を受けた場合
 一般に、教師のメディア接触度はあまり高くないと考えられる。なにげなしに見ていたテレビが学校放送番組であるという事態もあまり期待できない。放送教育の全国大会を引き受けた会場校の先生が、何年も前から放送していた番組の存在自体を初めて知るということは決して珍しくはない。番組の中断を決定する審議会に呼ばれた教師から、「そんないい番組があったとは知らなかった」という声が聞かれることもある。
 学校では、半ば年中行事のように各種の研究会が様々な規模で開催される。ある学校がその会場校として関わる場合、教員一同の自発的な求めに応じてという場合は存在したとしても少数であり、多くの場合は、「順番が回ってきた」「会長である校長先生が引き受けてきた」といった外来的なものである。しかしながら、いったん引き受けたとなると、その研究内容がある特定の教科であれ何であれ、学びの機会が与えられることになる。それは、教師にとって数少ない新しいものとの出会いの場を提供するのである。


3ー2 放送教育研究会全国大会を介した利用促進


 全放連が主催する放送教育研究会全国大会は、ブロックごとの大会と並んで、放送教育の普及啓蒙に大きな役割を果たしている。それは、放送利用の先進校が周辺に研究成果を広めるという意味合いと、会場校に指名されることでゼロからの放送利用スタートの契機となるという意味合いが含まれている。地区によって、どちらの意味合いがより強いかは異なるが、年々ゼロスタートに属する例が多くなってきているのではないか。
 全国大会では、その開催規模は縮小されたものの、開催に漕ぎ着けるまでの事務的な煩雑さや校種にまたがる大会運営の不慣れも手伝って、「研究面」の深まりまで到達できずに運営に苦慮することに終始してしまう危険性をはらんでいる。とりわけ、初めて放送教育に取り組む会場校にとっては、利用質に言及できるほどに研究が深まるためには様々な困難を極めているのが実態ではなかろうか。数年前の放送教育の会場校が次年度に生活科の会場校となった例があったが、放送教育の大会では生活科が取り上げられていた一方で、生活科の大会では公開授業のいずれにも放送利用が見られなかった。これは、会場校に放送利用を定着させることに失敗した(あるいは放送利用が生活科の研究課題として認知されていない)ことを物語る。大会が終わると放送利用も終わるのでは、砂上に楼閣を重ねるだけになりかねない。
 一方で、全国大会の会場校になったことを契機に、次の年度も継続して校内研究の課題として放送利用を取り上げた例もあった。学校ぐるみでの継続に加えて、会場校になる前は殆ど放送利用をしなかった教師が、個人のレベルで放送教育の実践を継続し、積極的に発言するようになった例もある。全国大会の準備段階では放送教育の先輩や研究者、あるいは番組制作者などとの交流を持つ機会もある。一人でも多くの教師にとって、組織ぐるみの動員で始まる放送教育への関わりが、個人的な接触を通じて自発的なものに変容する道を用意するべきであろう。


3ー3 全放連研究部を介した利用促進


 全放連の研究部は、東京地区の教師を中心とした組織ではありながら、夏の特別研修会の企画運営にあたったり、全国のブロック大会に出向いて交流を促進するなどの積極的な活動を展開している。研究部のメンバーは、いずれも自らが放送教育の日常的な実践者であり、放送利用への情熱も強く、また学校教育番組の実態にも精通している。しかし、それぞれの本職の合間にこなすべき役割が多岐にわたり、奉仕の精神のみが活動を根底から支えているというのが実情であろう。また、活動的なメンバーが限定されていることも、期待される役割の重要性に鑑みて、気にかかるところである。
 全放連の研究部では、様々な活動を試みているといわれているが、それが外部に知らされることは稀である。研究部が放送利用の促進の質的な担い手となるのであれば、NHK事業部だけではなく、たとえば日本視聴覚・放送教育学会の研究者との連携がはかられることが必要であろう。
 コンピュータネットワークを使って、研究部の活動を支援する可能性も模索したいところである。研究部員には、機器の貸し出しや通信料金の補助などの特典をあたえ、地方からの情報発信も促す。通勤から通信へとの時代の流れに則して、研究部の会合を減らしても、通信による情報交換を密にする。この場合、技術的な問題が研究部員の負担付加にならないように配慮する必要があることは言うまでもない。
 これを放送教育協会の活動とするのもよい。「放送教育」ネットワーク版とし、最新雑誌の内容をカバーすると同時に、これまでの資産を遡って検索できるようにする。放送教育協会の支援を受けながら、研究部は研究内容の発信のみを担当できるようになればなお理想的である。


3ー4 関連組織との連携


 放送教育は、視聴覚教育の一部である。そして、視聴覚教育は教育工学の一部である。このことは、古くから指摘されながらも、それぞれの組織が独立して歩んできた。数年前に学会レベルでは放送教育と視聴覚教育が統合されたが、現場では別組織として連携をとらないまま活動しているのが実態である。とりわけ、放送教育の世界は隔離されている感が濃厚であり、それが活動の妨げとなっている。
 首都圏や関西圏など、教員の絶対数が多い地区では問題にならないのかも知れないが、地方では、異なる組織のために同じに教員が右往左往する実態がある。構成員もそれほど多くない上に、勢力が分散されるため、一つ一つの活動に精彩がなくなる。放送教育を離れて、より新しい研究会に専心する教員もあとをたたない。積極的な教員ほど、どちらかを選択せざるを得なくなれば、新しいものに傾く。
 放送教育を視聴覚教育や教育工学の一部と見なすことは、放送教育の独自性を否定することと同じではない。むしろ、一緒に活動することによって、何が放送教育の独自性か、何が放送教育の果たす役割なのかを明確にすることが可能になる。隣接の組織との融合をはかることは性急には無理としても、積極的に連合をはかることは重要である。マルチメディアが映像とコンピュータの組合せ技術であることも、その重要性を示唆している。閉鎖的な態度があるとすれば、改めるべきであろう。


3ー5 非組織利用者への対応

(岩佐さんの原稿がこのあたりに入ってもいい)
<次の事項をこの項目への提案としたい>
テレビコマーシャルを流す
教師への情報提供に加え、家庭視聴を促進する。
教師向けの番組の放送
 全放連研究部の協力を得て、番組紹介と先進的な取り組み例を扱う番組。各教科の研究部会との橋渡しの意味で、「教科のトピックス」を含める。各教科の全国組織の代表者を出演させる。春休み、夏休み、冬休みの3回に集中して行うと効果的ではないか。


3ー6 今後望まれる研究の方向

 以上に述べた利用促進の諸策は、次の段階を経て実施されることが望ましいと考える。

 1 質的な実態調査
 放送教育に熱心な教師と、番組を全く利用しない教師やかつては利用していたがやめてしまった教師との両方を対象に、実態を調査する。本音を探るためには、郵送による調査票を用いた方法よりは、インタビューによる聞き取り調査が望ましい。放送を使う/使わない理由や、学校放送番組に望むことなどを聞くと同時に、現時点での番組案や利用促進案についての意見も聴取し、今後の研究に役立てることを意図する。
 番組制作にあたっているディレクターに対しても、インタビューによる聞き取り調査を実施する。作り手にとって現状は満足できるものなのか、何が変化することを望んでいるのか、現場とのコミュニケーション確保のためにどんな手段を講じているのかなどを聞き取る。

 2 番組利用促進に関する先進事例の調査
 諸外国における先進的な番組利用促進策を調査し、本プロジェクトでの提案にそれを反映させる。調査対象としては、米国の公共放送(PBS)が取り組んでいるインターネット上の情報提供や、パッケージ系ソフトとして番組を提供している例なども含め、諸策の適用可能性を探るものとする。

 3 利用促進案の立案と評価
 プロジェクトで試作する番組に対する利用促進案を立案し、それを実地に評価する。テスト試行の結果を見て、利用促進案を改善し、最終的な提言に改善された利用促進案を盛り込めるようにする。