鈴木克明(1995)『放送利用からの授業デザイナー入門〜若い先生へのメッセージ〜』財団法人 日本放送教育協会



第7章 メディアとしての放送と教師


■メッセージ■
教師もメディアの一つであり、それは授業実施への選択肢の一つにしか過ぎない。


はじめに
1 メディアとしての放送〜放送のメディア特性〜
2 教師がみた放送メディア〜オランダでの調査より〜
3 放送の特性と番組の特性
4 教師にとってメディアとは何か
5 教師とメディアの3つの関係
6 放送利用授業はどのタイプか?
7 教師もメディア(選択肢)の一つ?


■チェックポイント■

1 あなたは放送メディアのどんな特性を授業に活かしたいと常々お考えですか?



2 授業にあなたが使うことのあるメディアをリストアップしてみてください。
■メモ■
(本文を読む前に、チェックをしてみての感想などを書き残しておいてください)



はじめに 教師にとって教育放送とは何か

前章では、ケラーのARCSモデルを参考にして、学習意欲を育てるという観点から放送利用について考えた。その中で、放送というメディアそのものや番組の構成法が学習意欲に与える影響を整理した。この章ではそれを発展させて、メディアとしての放送(特に教育番組)と教師のかかわりについて吟味したい。教師にとって、教育放送とはいったい何者なのだろうか。

1 メディアとしての放送〜放送のメディア特性〜

これまでに、さまざまな立場から「(教育)放送の特徴」について多くのことが指摘されている ! 。電波を使って流すことから広範囲にわたって同時に素早く新鮮な情報を伝達できること。シリーズものを決まった時間に続けて視聴することからの継続性と定時性。放送局からの一方向的な、一過性の情報提供とそれゆえの「スイッチポン」の簡便性。公共放送ゆえの経済性、規範性、安定性。一流の出演者による心に訴える情緒性や芸術性。

テレビの場合は、言葉に頼らずに映像で勝負するメディアであるところから、臨場感や真迫性。具体的なものを通して抽象的な概念を表現しなければならないために「xxでないもの(否定形)」という表現をすることが難しいこと。モンタージュと呼ばれる画面組み合わせの独特な映像文法 % 。スローモーションや拡大写真などの時間空間の拡大縮小を伴う特殊撮影の効果、などなど。どうも放送というものは、数え上げたらきりがない程、特徴の多いメディアらしい。

2 教師がみた放送メディア

表VII-1に、オランダで小学校の教員を対象にして調査された「放送のどこに価値があると思うか」の上位九項目を示す。この表は、放送に高い価値をおくとの回答が多かった順にならべられたものである。オランダでどのような番組が流されているのか事情はよく分からないが、日本での経験に照らし合わせると、「よく似ているな」と思われる方が多いのではなかろうか。

表VII-1.放送のどこに価値があるか(1985年オランダでの教員調査による / ;順位順)
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1.見せることが難しい/不可能なものの映像(絵)を見せることができること。
2.現在進行形の問題に注目させ、情報をつかみとらせることができること。
3.教師が放送なしでははっきり説明できないことを説明してくれること。
4.使いやすいこと。ほとんどだれでもがテレビ受信やビデオ録画ができること。
5.番組が多様で、子供たちの興味をひくこと。この利点を活用できること。
6.特定の教科内容に対する子供たちの意欲をかき立てる特性をもっていること。
7.録画して何度でも繰り返し使える教材を提供し、マルチメディアセンターを無料でつくれること。
  学校にとって安価なメディアであること。
8.教師が確信が持てない教科内容や変わりつつある新しい領域で、教師の手助けとなること。
9.テレビ番組を提供するだけでなく、補助教材(教室での番組の使い方ガイドや魅力的な問題集)が提供されること。
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3 放送の特性と番組の特性

教育に放送メディアを用いる場合の長所は何だろうか。水越は「テレビの最大の特性は、何といっても時間と空間をこえた即時性と臨場感であろう。 " 」とかつて指摘したことがある。ケラーのARCSモデルに照らせば、世の中に実際に起こっている事象と授業とを関連づけ「やりがい」を与える〈関連性〉の側面にテレビの特性を求めているといえよう。しかし、同時に水越は、番組による差、視聴年令による差の大きさを強調し、放送だから云々といった画一的論法が放送教育の理論と実践を分裂させていると指摘した。上述したようなさまざまな放送メディアのいわば「可能性としての特徴」のどれが個々の番組に実際に生かされているかによって、その生かされている特性が長所になりうるということだろうか。前章で提案した「学習意欲を育てる授業設計点検表」でも、メディアとしての放送の特性(ハードウェア特性)と、番組構成の特性(ソフトウェア特性)を区別して、「放送だから云々」という一般論が成り立たないことを指摘した。

放送教育の「あるべき姿」をめぐっての議論は、メディア特性の解釈も含めて古くから盛んだ。今でも、「その使い方では放送の特性をいかしているとはいえない」とか「それでは放送教育でなく視聴覚教育だ」などといっ た議論があとをたたないとも聞く。放送のメディア特性を議論するのもよいが、メディアとしての特性よりも、現実に流されてくる番組の特性によって左右される部分が多いということは、肝に銘じておかなければなるまい。さらに、その番組をだれが視聴し、どんな成果をあげたのかを吟味したうえで、どのような特性をもった子どもたちに、どのような特性をもった学習課題を教えるために、どのような番組の利用方法を採用するのがよいのかの最適な組み合わせを求めていく態度が大切だ。

4 教師にとってメディアとは何か

さて、話題を少し広げることにしよう。放送は授業に用いるメディアの一つである。いわゆる「多メディア時代」の今日にあっては、多くの選択肢の中の一つだという。教師にとって放送とは何かを考えるために、教師にとってメディアとは何かをここで振り返ってみよう。

現代の教師が授業を実施するとき、複数のメディアを必ず使う。黒板とチョークという「伝統的」メディアに始まり、教科書、辞書事典、地図帳、ワークブック、資料集、自作プリントなどの「印刷」メディア、あるいはOHP、スライド、ビデオ、掛け図、テープレコーダーなどの「視聴覚」メディアもある。最近の実践ではワープロやパソコンなども加わり、頻繁に用いるメディアだけを考えても、まさに「多メディア」である。

ところで、最近、特にコンピュータ関連の用語として「マルチメディア」という言葉をよく耳にする。コンピュータ業界にとってはコンピュータが動画や音声を扱えるようになっ たことは画期的であり、それをマルチメディア型パソコン、あるいはマルチメディアに対応したコンピュータと呼んでいる。教室ではだいぶ昔から複数のメディア(マルチ・メディア)を駆使して、伝える情報の性質にふさわしいメディアを組み合わせて授業をしてきた。それは、先生という名のコンピュータの存在によって支えられてきており、コンピュータがマルチメディア化することの意義は教育界にとっても大きい。しかし、コンピュータ業界のマルチメディアという言葉は、われわれにとっては、「これまで多くの教育機器が必要だったところがコンピュータ一台ですむようになる」ということを意味し、マルチメディア化は多メディア化ではなく、コンピュータへの収束(少メディア化 * )を指向したものであることに注意が必要である。ここでは、コンピュータの高速化とデジタル化技術に支えられて、コンピュータが扱える情報の形態がマルチになったことがマルチメディアと呼ばれている + 。

情報の形態がマルチになる、という観点からは、ラジオからテレビへの発展は放送のマルチメディア化であった。ラジオは聴覚情報(音)のみであったが、テレビでは聴覚情報に視覚情報(画像や文字)が送出できるようになった。視聴覚メディアを整理した「経験の円錐」で有名なデールは、テレビはそれ自体に多メディアを包含していると指摘する。「テレビジョンは、写真、絵、標本、模型、映画といったような、殆どの視聴覚的なもののすべてを電波にのせて送ることができる。これはテレビのもつ大きな長所である。 & 」

5 教師とメディアの三つの関係

授業における教師とメディアの関係を図VII-1に示す三つの場合に分けて考えてみよう ' 。この図には、授業で目指す目標や授業の内容(上段)が学習者(下段)に伝えられて学習が成立するまでの経路に、メディアと教師がどのような関係で関わっているかを、大きく三つに分類している。

Aの経路は、多くのメディアが使われる場合でも、いつも教師がそれをあやつり、口頭での説明を加えながら子どもに提示し、学習活動を促す場合を指す。Bの経路は、授業のある部分は教師が授業の流れを制御し、ある部分は教師がメディアに主役を譲りメディアが直接教える場合である。メディア利用をさらに進めると、ある授業時間中のすべてを子どもがメディアから直接教わるCの形になる。さて、先生方の授業ではふだんどのタイプをどのくらいの割合で使っておられるのだろうか。

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図VII-1挿入
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6 放送利用授業はどのタイプか?

典型的な放送利用授業の場合は、Bのタイプに分類される。もしも放送が流れている間中、画面の横に陣取って画面を指差しながら、ひっきりなしに「ここに注意しなさい」とか「これをノートにとりなさい」とかの指示を子どもに与える先生がいたとしたら、それはAタイプの放送利用になる。メディアを使いつつも、常に教師が前面にあり、授業を直接制御しているとみなされるからだ。しかし、それは余り典型的ではない。普通の教師なら、放送が流れている最中は教壇を降りて、画面と子どもの両方が見える位置にいて、子どもが放送メディアから直接「教わる」ことを邪魔しないで見守っているだろう。

「0分スタート」といわれてきた伝統的な放送利用ならば、教師の導入を最小限にとどめて子どもが放送というメディアに直接接する機会をつくる。番組視聴前に先行経験の掘り起こしや番組内容の予想などといった教師による導入をする場合には、まず教師が授業をリードし、次に放送メディアにバトンを渡す。そして、どちらの場合でも番組視聴後には必ず教師がバトンを受け、疑問点の整理や製作活動、あるいは話し合いなどのさまざまな発展的学習活動へと子ども達を導いていく。(教師→)放送→教師という流れをもつBタイプの授業である。

ビデオに番組を録画して使うのが一般的になってきた今日、Bタイプの典型的な放送利用のほかにも、さまざまな形での番組利用が試みられている。例えば、子どもたちが個人で、あるいは班ごとに、選んだテーマに基づいて「調べ学習」をする時間に、関連する書籍や先生の自作資料プリントなどと並んで、映像資料として録画済みの教育放送を含める実践がある。この場合、テーマに応じて子ども達が番組を選択し、自分達でビデオテープをセットし、必要があれば一時停止してメモをとり、わからないところは繰り返し見るなどして「自分流」の番組視聴をすることになる。単元のある一授業時間のすべてをこのような調べ学習にあてるとすれば、この授業はCのタイプの授業にほかならない , 。放送メディアが四五分ないし五〇分のすべてを使い切る長さでなくても、他のメディアと組み合わせることによって、教師が側面にまわるCタイプの授業に使うメディアの一つとすることが可能だ ) 。

7 教師もメディア(選択肢)の一つ?

メディアの使い方が教師の考え方(授業デザイン)次第だという例は、何も放送メディアに限ったことではない。例えば黒板は、教師が授業内容を整理して子どもにノートの取り方を教えるためだけのメディアではない。討論で子どもたちの発言を整理するために使ったり、あるいは教師が出した問題を子どもの代表に解かせたり、あるいは子どもが発表に使ったりとさまざまな用途がある。

教科書だって、いつも教師主導のAタイプの授業で使うメディアである必要はない。五分間クイズプリントで教科書の中から情報を発見させたり、問題プリントを併用して重要事項を子ども達が自分で教科書から拾いだす作業に用いれば、その時は教科書+プリントというメディアが直接授業を受け持つので、Bタイプの授業に早変わりする。教師は教壇を降りて、つまずいている子どもにアドバイスしてやる時間ができるのである。

メディア(Media, 単数形はMedium)を直訳すれば「媒体」「媒介」となる。何かと何かを仲介するものを総じてメディアというわけだが、人間がコミュニケーションするために情報を伝達する手段をメディアと呼ぶと考えておくのがよい。したがって、授業におけるメディアには、黒板、教科書、OHP、テレビ(ビデオ)、コンピュータなどに加えて、「教師の声」も含まれる。

授業設計論の立場では、メディアとは「授業の計画を具現化するものすべて - 」を指し、計画をどのメディアを使って実現していくのがいいかを考えるメディア選択のモデルの多くには、「教師の声」という選択肢が含まれている . 。確かに同じ内容のメッセージを、自分で口頭で説明する(メディア=教師の声)こともできるし、ワープロで文章化して配布する(メディア=プリント)こともできるし、有名な科学者のインタビューの中から抜粋して見せる(メディア=ビデオ)こともできる。

「教師もメディアの一つであり、それは授業実施への選択肢の一つにしか過ぎない」と講義の中で述べると、「なんて冷たい人だ」との印象を与えるようだ。しかし、それは学生が、「授業とは教師がしゃべり、生徒は黙ってそれを理解しようと試みるもの」という固定観念を強くもっていることを物語り、それは恐らく他ならぬ彼ら自身の被教育体験の蓄積に裏付けられている。その固定観念型の貧しい授業のイメージを破れないまま放送教育を考えると、「教師はやることがなくなる」という結論が導かれやすい。「教師がしゃべるかわりにテレビがしゃべる授業」以外の何物も想像されないからである。

メディアの使い方が教師の考え方(授業デザイン)次第なのは、何も「ものメディア」に限ったことではない。メディアとしての自分自身(教師の声)の使い方も、実は教師の考え方次第なのである。「自分で説明すること」をも授業で用いる候補メディアの選択肢の一つと考えて相対化し、「教師が直接教えないで教える」ことを工夫するのは、授業デザイナーとしての教師自身にほかならない。授業における最も柔軟で、最も貴重なメディアは、教師自身である。肝心なときにだけ、他のメディアで代替がきかない場面でのみ、登場するメディアでありたいと思う。

〈注〉
! たとえば、秋山隆志郎(一九九〇)「これからの放送教育」『放送教育研究』第一八号、七ー十一頁。
% モンタージュ(montage)とは、組織する、組み立てるという意味をもち、映像表現での画面と画面、カットとカットの組み合わせ方でストーリーを組み立てることを指す(東洋他(編)(一九七九)『新・教育の事典』平凡社、三三頁)
/ Meyer, M. (Ed.) (1992). Aspects of school television in Europe: A documentation. Saur: M殤chen, p. 58
" 水越敏行(一九七六)『授業評価の研究』明治図書、一五九頁
* 浜野保樹(一九九〇)『ハイパーメディアと教育革命〜「学ぶもののメディア」としてのコンピュータの出現〜』アスキー出版、一六七頁
+ 鈴木克明(一九九五)「マルチメディア時代に教育はどう対応していくか(連載特集:学校教育はどう変わるのか(2)戦後五○年から二一世紀を展望して)」『教職研修』一九九五年九月号 八○ー八三頁
& デール、E著、西本訳(一九五七)『デールの視聴覚教育』日本放送教育協会、一〇六頁
' 中野照海(一九八二)「授業の設計の基礎」大内・中野(編著)『授業の設計と実施』図書文化、八九頁
, たとえば、第5章で紹介した金沢の社会科の授業は、Cタイプに分類される。授業の始めのあいさつから終わりのあいさつまでのすべての時間が「調べ学習」に充てられていた。放送番組を子ども自身の手でVTRを操作して見ているグループもあった。教師は、あいさつ以外は教壇に立っていなく、グループの作業を側面から援助していた。
) 鈴木克明(一九八七)「四八 ニューメディアの導入によって、学習指導における教師の役割はどう変わるか」沼野一男・平沢茂(編)『教育の方法・技術(教育演習双書8)』学文社、一七七〜一七九頁
- 中野照海(一九八二)「授業の設計の基礎」大内・中野(編著)『授業の設計と実施』図書文化、八六頁
. たとえばリーサーとガニェによるモデルがある。詳しくは、鈴木克明(一九八五)「教授メディアの選択にかかわる要因」『視聴覚教育研究』第一六号、一〜一○頁を参照。


■チェックポイントのチェック(解答)■
1 放送の特性はいろいろと述べましたが、結局はその特性を何のために生かすかが大切なのです。さてあなたは何のためにどの放送の特性を生かしますか?もう一度、振り返ってみてください。
2 この本の冒頭(序章)で「助っ人」を使いこなすという言葉を使いましたが、メディア=「助っ人」と考えてよいわけです。もちろんメディアとしての自分自身も大切な大切な「助っ人」です。放送番組以上に大事に扱いたいものですね。