熊本大学大学院教授システム学専攻
目次:
13.教育のパラドックス

【第13回】教育学の2大潮流(3)教育のパラドックス
はじめに~

教育とは、「教える」(文化伝達の行為)と「育てる」(子どもの成長を図る行為)とを同時に為すことを指す。私たちは、一見ほとんど異質的と思えるこの二つをつなぐ意味を、「子どもを善くする意図」として自覚してきた。 わが子が「善く」育つことを願わない親はいない。若者が「善く」育つことを願わない大人はいない。 しかし、われわれは、どう生きることが「善く生きる」ことかの答えを持っていない。これが教育のパラドックスである。

「善さ」を教える側が知っていると思えば、「教える」に偏った押しつけになってしまう。逆に「善さ」は子どもの内側にあると思えば、「育てる」に偏り手も足も出せなくなってしまう。どちらも、われわれは「善さ」が何かを知らない、しかし、子どもを「善くしよう」という思いで働きかけないではいられない、という「教育のパラドックス」を自覚していないためだと村井は指摘する。

「私の考えでは、教育という仕事は、本来それがパラドックスであることを知ることから始まらなければならない。そして、あえてそのパラドックスを引き受けるという自覚をもって推進されなければならない。」(村井実(1976)「教育学入門(下)」講談社学術文庫、p.148)

注釈:村井は、「子ども」で代表される教育の対象は、正確には「成長を期待される限りの人間」と言うべきであり、年齢には関係がない、と注釈している(村井実(1976)「教育学入門(上)」講談社学術文庫、p.17)。

◆補足資料(鈴木による書き下ろし)◆
「村井実の兼愛説:『新・教育学のすすめ』のすすめ」(PDF形式)

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沼野一男著(1986)「情報化社会と教師の仕事」国土社(教育選書8)p.35-50 には、教育と宣伝・飼育がどう違うのか、教育のパラドックスとは何かが説明されています。上に紹介した村井実著「新・教育学のすすめ」小学館とともに、ぜひ一度ひも解いていただきたい名著です。合わせて紹介しておきます。

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さて、今回のタスクでは、「教育とはいったい何なの?」という問いに正面からぶつかってみましょう。○○とは何か、を考えるときには、○○ではないものとの違いを考えるのが良いと言われています。そこで、「教育」とは似たような、 しかし少し違うような言葉「宣伝」と「飼育」の二つを取り上げ、それらとの違いは何かを議論してみましょう。教育活動を「宣伝」や「飼育」から区別する方法は何でしょうか。おっと、これに答えるためには、沼野の考えを知りたくなりますねぇ、きっと。

また、「何でこんな教育をしているの?」ということも考えてみましょう。子どもが望まない教育を何故しているのか、それは押しつけ以外の何かにあたるのか。 学校ではどうか、職場ではどうか。「ニーズ」に基づく教育とは何だろうか。き っと、教えると育てるの二つの側面から論じた「教育のパラドックス」や村井実 の兼愛説が参考になるでしょう。 自由に論じてください。相互コメントを付け合うことで盛り上げましょう。